はじめに-伊奈忠次とはどんな人物だったのか

伊奈忠次(いな・ただつぐ)は、徳川氏の領国で検地や年貢制度の改革を実施し、農政や民政の分野で大きな貢献をしたと伝わっていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、江戸の都市計画を担う代官に抜擢される人物(演:なだぎ武)として描かれます。

目次
はじめに-伊奈忠次とはどんな人物だったのか
伊奈忠次が生きた時代
伊奈忠次の足跡と主な出来事
まとめ

伊奈忠次が生きた時代

戦国時代において、日本の大多数を占める農村の支配は重要で、集税のために検地が実施されたり、新田が開発されたりしました。農村の発展による徴収額の増加は、経済基盤の強化につながるため、日本各地で治水工事や荒野開墾が進められたのです。伊奈忠次もまた、徳川氏の領地で農政に深く関わり、経済基盤強化に貢献していきます。

伊奈忠次の足跡と主な出来事

伊奈忠次は生年が天文19年(1550)で、没年が慶長15年(1610)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

農政や民政で敏腕ぶりを発揮する

忠次は伊奈忠家の長男として、三河国幡豆郡小島(愛知県西尾市)に生まれました。当初、家康の嫡男・信康に仕えていましたが、天正7年(1579)に信康が武田氏との内通を疑われて自害に追い込まれると三河を抜け出します。そして、父とともに堺にいる伯父・貞吉の元へ身を寄せました。

天正10年(1582)に家康が堺を訪問した際に、本能寺の変が勃発し、家康の伊賀越えに同行。こうして家康に帰参して、再び仕官することになり、小栗仁右衛門吉忠の同心になります。

天正14年(1586)に、家康が駿府城に移るに際して近習(きんじゅ)となり、傍で仕えます。5か国に対して実施した検地では、大きな功績から重用されるように。

天正18年(1590)に、秀吉が小田原の北条氏を攻めると、その際に駿河・遠江・三河の道路の整備や富士川の船渡し、兵糧の輸送などを担当して、秀吉からも信頼されます。

家康が江戸に転封になると、忠次は代官頭に。次ページに続きます

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