家康が江戸に転封になると、忠次は代官頭に
北条攻めが完了後、家康が江戸に転封となることに。この時、忠次は代官頭となり、家康に「関八州を己の物のごとく大切に致すべし」と告げられたという逸話が残っています。それほど、家康から厚い信頼を得ていたのでしょう。
関東においても忠次はその敏腕ぶりを発揮します。忠次は武蔵小室・鴻巣において1万3千石(一説には1万石とも)を与えられ、陣屋を構えて拠点とし、活動を開始しました。
検地や利根川など河川の改修工事、新田開発、交通制度の整備などを実行。忠次の諸政策は備前検地・備前堀・伊奈流とも呼ばれ、江戸幕府の基本政策となっていきます。忠次は江戸幕府の政治・経済基盤の充実に重要な役割を果たすことに。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、小荷駄奉行として活躍し、その年に従五位下(じゅごいげ)備前守(びぜんのかみ)に叙任されました。家康が再び駿府に移る頃には、江戸の将軍・秀忠を支え、単なる代官頭にはとどまらない年寄衆に近い役割まで果たすように。関東郡代は忠次の子孫が寛政4年(1792)まで世襲することになるので、その存在感の大きさを伺えます。
しかし、忠次は家康による天下統一を見ることなく、豊臣氏が滅亡する大坂夏の陣より5年前の慶長15年(1610)に亡くなりました。
備前渠について
忠次が築いたものの中で有名なものに備前渠(びぜんきょ)があります。利根川から取水され、埼玉県北部の本庄市・深谷市・熊谷市を流れる約23キロの農業用水路です。慶長9年(1604)に1年間という短い期間で開削されました。埼玉県最古の用水路で、素掘りの所が多く残り、当時の面影を残します。「備前」と名がつくのは、忠次の官職に由来します。
平成18年(2006)には長い歴史や優れた景観を誇る疎水として「疎水百選」に選定され、令和2年(2020)には「世界かんがい施設遺産」にも登録されました。
まとめ
伊奈忠次は用水路の開削や新田開発、交通制度の整備など農政や民政の分野で大きな功績を残し、江戸幕府の経済基盤を固めました。戦国時代では戦いや戦術が注目されがちですが、当時の内政面における人物の活躍を見てみるのも面白いかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
熊谷市公式サイト