秀吉の関白就任、北政所と称される

主君である信長の死後、その実質的な後継者として、秀吉は天下人の座へと駆け上りました。天正13年(1585)、秀吉が関白に就任したことで、正室の寧々も従三位に叙せられることとなり、「北政所」と称されるようになります。

さらに、天正16年(1588)、秀吉は完成したばかりの聚楽第に、後陽成天皇を招きました。この時、天皇の行幸を無事に終わらせた功績を称えられ、寧々は従一位に叙せられることとなります。

当時の武家社会において、妻が夫を陰ながら支えるのは珍しいことではありませんでしたが、何事にも臨機応変に対応できた寧々は、非常に能力の高い女性であったと言えるでしょう。

北政所黒印状(名古屋市博物館蔵) 
寧々が摂津三田藩藩主・有馬則頼に融資していた黄金五枚が、無事返済されたと書かれている。秀吉は戦に備えて交通の整備を行っており、大坂から名護屋へ渡るには北政所の黒印状を必要とする体制を取っていた。このことからも、寧々は秀吉から非常に信頼されていたことが分かる。

秀吉の死後、秀頼の後見人となる

寧々は秀吉の良き理解者として、支え続けましたが、慶長3年(1598)、秀吉は病をこじらせて亡くなってしまいます。秀吉の死後、寧々は彼の側室・淀殿の息子である秀頼の後見にあたりました。

寧々と淀殿の関係性について、「淀殿が男児を出産したことを、寧々が嫉妬していた」「淀殿と寧々は不仲だった」と言われることが多いです。しかし、二人は不仲ではなく「関ケ原の戦い」の際も、互いに連絡を取り合っていたという説が、近年では有力になっています。

慶長8年(1603)、秀頼と家康の孫娘・千姫が結婚したことで、役目を果たした寧々は落飾します。そして、「高台院」と称して京都の東山に高台寺を建立し、この地で余生を過ごすこととなりました。

豊臣家滅亡、静かに迎えた最期

慶長19年(1614)、「大坂の陣」が勃発。寧々は戦の調停を行なおうとしますが、彼女の動きを警戒した家康により、行動を制限されてしまいます。そして、翌年の慶長20年(1615)5月、栄華を誇った豊臣家は滅亡することとなったのです。

その後、寧々は家康から化粧料(女性が生存している間に限定して与えられた財産)の一万六千石を与えられ、秀吉の菩提を弔いながら、寛永元年(1624)、77年の生涯に静かに幕を閉じました。

まとめ

天下統一を目指す秀吉を、献身的に支え続けた寧々。彼女のサポートがあったからこそ、秀吉は天下人になることができたのかもしれません。寛大な心で夫を支え、愛情を持って周囲と接していた寧々は、当時の武家社会における女性の鑑であったと言えるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)

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