「関ヶ原の戦い」に出陣、上杉氏と一戦を交わす
慶長5年(1600)、天下分け目の「関ケ原の戦い」が勃発。この時も、家康は秀康ではなく、三男の秀忠を主将にしたのです。家康は秀康を関ケ原へは連れて行かず、会津の上杉氏の押さえとして、関東に留めました。
しかし、これは秀康を敬遠していたからではなく、彼の力量を認めていたからだと言われています。家康は、「上杉氏と戦うことができるのは秀康しかいない」と彼を説得し、長年愛用していた鎧をその場で譲ったそうです。
秀康は父・家康の命に従い、彼らを支えるために戦うことになったのです。
薄幸ながらも懸命に生きた秀康
その後、「関ケ原の戦い」での戦功を称えられ、下総結城10万石から、越前67万石に大加増を受けました。また、秀康の威風には、将軍となった弟・秀忠も一目置いていたと言われています。幕藩体制の中でも、秀康は「制外の家の当主」として特別扱いされていたのです。
武勇に優れたとされる、秀康。しかし、慶長12年(1607)、34歳の若さで病没してしまいます。周囲から冷遇されていたというイメージを持たれがちな秀康ですが、武将としての威厳と能力の高さを恐れられていたのかもしれません。
まとめ
家康の血を引く徳川家の次男でありながら、数奇な運命を辿った結城秀康。彼の死を受けて、家康は深く落ち込んだと言われています。家康は、優れた武将としての資質を備えた秀康のことを認めていたものの、複雑な気持ちを抱えていたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)