はじめに-羽柴秀次とはどんな人物だったのか
羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)は秀吉の甥であり、関白にまで上り詰めるなど栄華を極めるも、最後は自害するとともにその多くの子女や妻妾が処刑されたことで有名ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-羽柴秀次とはどんな人物だったのか
羽柴秀次が生きた時代
羽柴秀次の足跡と主な出来事
まとめ
羽柴秀次が生きた時代
戦国時代には、秀吉のように百姓から武士を目指す人は少なくありませんでした。兵農分離がまだ進んでいなかった頃は、身分は固定されたものではなく、百姓から大名にまでなることが可能だったのです。羽柴秀次もまた、秀吉のように関白にまで上り詰め、下剋上を体現することになります。
羽柴秀次の足跡と主な出来事
羽柴秀次は、永禄11年(1568)に生まれ、文禄4年(1595)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
天下人の甥から関白への道
秀次は、秀吉の近臣・三好吉房の子として生まれます。母が秀吉の姉であったので、秀吉にとっては甥、つまり親戚でした。
秀次は、宮部氏などの養子になるなどを経て、秀吉の部下としてさまざまな活躍をしていきます。
天正11年(1583)の伊勢攻略や賤ヶ岳の戦いでは戦果をあげますが、翌年の天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは8000の兵を率いて徳川家康に大敗し、森長可(ながよし)と池田恒興(つねおき)という有力家臣を失うことに。これにより、秀吉から「無分別」と叱責されました。天下人の甥であるという立場上、秀次に対する周囲からの注目は大きく、プレッシャーもそれなりのものであったことが推測されます。
その後、紀州や四国への遠征の活躍で、羽柴性に戻ることを許され、さらに秀吉の諱の1字をもらって「秀次」と名乗ります。
秀次は近江で43万石を与えられ、八幡に居城を築城。楽市楽座を施行し、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぐことで往来する船を寄港させるなど、町が発展する基礎を築きました。また、従三位(じゅさんみ)中納言に叙任、「近江中納言」と呼ばれることも。
天正15年(1587)の島津征伐の後、小田原合戦で主将となり、山中城・韮山城の攻略を担当。また、同じ時期に起きた奥州一揆鎮圧のため家康とともに派遣され、検地や刀狩を実施しました。これらの功績により、改易された織田信雄の旧領尾張と北伊勢五郡を与えられ、清洲城に入ります。
【関白の剥奪からの自害。次ページに続きます】