天正13年(1585)、秀吉が関白になると、秀次も右近衛(うこのえ)中将となり、秀吉の後継者と認められ、官位も急速に昇進していきました。秀吉の子・鶴丸が亡くなった3か月後の天正19年(1591)11月には秀吉の養嗣子(ようしし)となり、最終的に関白となり、聚楽第(じゅらくだい)を譲られます。翌年には、聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸がありました。
このままの状態であったなら、そのまま秀吉から秀次への豊臣政権の移行があったのかもしれません……。
関白の剥奪からの自害
しかし、文禄2年(1593)、秀吉の側室・淀殿が豊臣秀頼を生むと、徐々に秀吉との関係が悪化します。秀次は粗暴で不謹慎な行為が多い、謀反を企んでいるといった噂が行き交うようになり、文禄4年(1595)には秀次より野心のない旨の誓紙が出されるも、関白の位を剥奪され、高野山に追放されました。
その後、秀次は高野山にて自害。28歳でした。秀吉から命じられたので自害した、あるいは自身の身の潔白を証明するために自分の意志で自害したなど諸説あります。また、「殺生関白(せっしょうかんぱく)」と呼ばれるほどの乱行(殺生禁断の比叡山で鹿狩りをした、つまらないことから座頭や料理人をなぶり殺しにしたなど)があったとされていますが、その信憑性は明らかではないようです。
いずれにせよ、秀次が自害しただけにとどまらず、その子供と妻および側室30数人も京都の三条河原で処刑されました。また、聚楽第は破却されてしまいます。 これによって、豊臣家を担う重要な後継者がいなくなり、幼い秀頼だけが残されることに。
これらのことによって家康に政権奪取のチャンスを与えることになり、秀次の死から20年後には、豊臣家は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で滅亡してしまいます。
まとめ
成人した秀次が自害することなく政権が移行していれば、家康が豊臣家を滅ぼすことができていたかどうかはわかりません。そうしたことを考えると、秀次の死は、その後の日本史の方向性を大きく左右する重大な出来事であったといえるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)