帰国から死去まで
帰国後、一連の対立もあって黒田長政と結んで石田三成の殺害を計画しますが、徳川家康から咎められ、中止に。関ヶ原の戦いでは、九州における東軍の中心として戦いました。戦後は球磨・天草を除く肥後の領主になり、従四位下(じゅしいのげ)肥後守(ひごのかみ)に叙任。
肥後では、熊本城を建築、それによって城下町が形成されていきます。また、4大河川を改修、灌漑用水の便を図って新田を開発しました。貿易にも熱心で、大型の朱印船を建造し、東南アジアとも交易しています。 清正は家康に臣従したものの、豊臣家に対する恩も忘れておらず、豊臣秀頼を説得して二条城にて家康と会見させることにも成功しています。その帰りに病(脳内疾患と推測される)にかかり、50歳でなくなりました。
土木の神様
清正は軍事だけではなく、「土木の神様」と呼ばれるほど、築城や治水などの土木が得意でした。
名古屋城や江戸城などの築城に関わり、中でも自身が主導して築いた熊本城は天下の名城として有名です。熊本城は時代が下った明治10(1877)年の西南戦争で、1万3000人の薩摩軍が包囲・攻撃するも陥落せず、近代戦においてもその堅牢さが証明されることになります。
また、治水では「鼻ぐり井手」と呼ばれる用水路を作りました。井手(用水路)を壁で区切り、壁の底中央に穴を開けることで流れを速くして阿蘇の火山灰が溜まるのを防ぐ仕組みです。深い用水路は火山灰の除去が困難であったので、このような仕掛けにしたと言われています。今も現役で使用され、このような清正の功績もあって、熊本市民の水道水源は100%が地下水でまかなわれているそうです。
まとめ
多才な加藤清正は軍事をはじめ、築城や治水、行政などさまざまな分野で大きな功績を残しました。今でも使われている鼻ぐり井手などの治水施設や西南戦争でも陥落しなかった熊本城など、その存在の大きさを感じることができるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
熊本市公式ページ