この戦いの内容と結果

天正10年(1582)の12月、秀吉が勝家の城である長浜城を攻撃したことで、戦いが始まります。この時期の越前は雪が深くなり、簡単には軍事行動が起こせません。秀吉はそれを見計らって、長浜城を攻撃したのです。さらには、岐阜城にこもっていた信孝も屈服させてしまいます。

翌天正11年(1583)の正月、一益が伊勢にて挙兵。そして勝家も柳ヶ瀬(滋賀県余呉町)付近まで出陣します。勝家は前将軍の足利義昭や支援者の毛利輝元と連携して、秀吉包囲網を形成しようとするも失敗。秀吉は3月には、賤ヶ岳一帯の高地を占領、布陣しました。

4月になって信孝が再度秀吉に反旗を翻し、挙兵。秀吉は対応のため、大垣に向かいます。そして、20日に勝家軍からの攻撃があったとの連絡を受けるや、大垣を出て木之本へと急遽移動。そして、翌21日の早朝に勝家方の佐久間盛政を追って賤ヶ岳で撃破しました。なお、この時の戦いで大きな功績を上げた加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになります。

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣画)

盛政は秀吉の早い動きに対応できず、敗走。勝家も越前に敗走します。23日には、秀吉が勝家のこもる北庄城を包囲。24日の朝、追い詰められた勝家は妻であるお市の方の連れ子3人を城から逃し、秀吉に託した後、妻・お市の方とともに城に火を放って自害しました。勝家はお市の方に対して城を出るように説得したが、ともに自害することを主張したと言われています。なお、脱出した3人の一人であるお茶々は後の淀君として秀吉の側室になりました。

柴田勝家とお市(喜多川歌麿画)

勝家戦死の報を受けるや、信孝は戦意を喪失し、兵士も離散。信孝は兄・信雄の説得も合って岐阜城を開城します。信孝は安養院(愛知県美浜町)で切腹させられました。この時、信孝は腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたとも。

そして、一益も北伊勢5郡を差し出して降伏します。こうして戦いは終結したのです。

「賤ヶ岳の戦い」の後

戦後、織田家家臣内部での争いが終結しました。秀吉が信長の後継者であることが明らかとなり、徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統(吉統)らの大名も、秀吉の戦勝を祝う形で使者を送り、信交を結ぼうとします。秀吉の地位は不動のものとなり、この後に大坂城建設や関白就任など政権の基盤を固めていくのです。

まとめ

賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利したことで、信長の後継者は秀吉であると認められるようになります。信長の次の天下人は誰であるかを決める、重要な戦いであったと言えるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

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