文/池上信次
ジャズ・ヴォーカルにおいては、世界標準であり世界共通の言語は英語です。第211回から紹介した「イパネマの娘」伝説(文末一覧参照)は、その認識が発端のひとつになっているわけですが、逆に言えば、局地的ヒットのためにはその地の言葉が必要ということになります。英語で世界を制したアストラッド・ジルベルトは、それも狙って日本語、イタリア語のアルバムをそれぞれの国でリリースしたこともそこで紹介しましたが、これはアストラッドに始まったことではありません。
アストラッドがシーンに登場するずっと前、すでに世界を制覇していたナット・キング・コールは、英語圏に次ぐ大きなマーケットと思われるスペイン語圏でのヒットを狙って、スペイン語歌唱によるアルバム『コール・エスパニョール』を1958年に録音・リリースしています。
1980年の『ビルボード』誌(11月22日号)の「キャピトルEMIのラテン・マーケット進出計画」という記事の中に、過去の成功例としてキング・コールのこのアルバムが紹介され、それまでにブラジルで30万枚、スペインで50万枚売れた実績があると書かれています(ブラジルというのはおそらく南米全体を指してのことだと思われます)。当時のアメリカでのキング・コールの人気は絶大でしたが、スペイン語の歌唱は新しいマーケットを拓き、確実に人気に拍車をかけたということですね。もちろん「スペイン語で歌う」というマーケティング企画が出発点にあったとしても、キング・コールの実力がなければその結果は出るはずもありません。時を経るほどこのアルバムの評価は高まり、のちの2007年にラテン・グラミー賞の殿堂入りをしました。「本物」のラテン・アルバムとして認められたのです。
キング・コールの「母語以外で歌う」コンセプトの極めつけが「L-O-V-E」の多国語ヴァージョンです。1965年にキング・コールはこの曲を英語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、そして日本語で歌い、それぞれの国でシングルが発売されました。日本盤は『ラヴ/悲恋のワルツ(I Don’t Want To Be Hurt Anymore)』で、A面B面両曲とも漣健児作詞による日本語の歌唱です。調べてみると、各国語盤は全部アメリカでもシングルが出ていました。キング・コールの人気の高さがうかがえますが、そこで驚いてしまうのが、そのジャパニーズ・ヴァージョンのB面曲。日本盤とは違う曲で、なんとタイトルが「KAREHA」なのです。日本語歌唱の「枯葉」なので当然といえば当然なのですが、「Autumn Leaves」ではなく「KAREHA」という、「外国語曲を歌う」というしっかりとした意思が感じられます。
もっと驚くのは、当時のアメリカのプロモーションのシングルで「Six Languages」ヴァージョンがあったこと(しかもショートとロングの2ヴァージョン)。これはタイトルどおり、6か国語で続けて歌っているのです。英語に始まり、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語と続いて最後が日本語なのですが、言語がどんどん変わっても、ハキハキとして発音明瞭なキング・コールらしさはまったく変わらないのがじつに面白いところです。現在ではCD『International Nat King Cole』『Classic Singles』(いずれもCapitol)などで、各国語の「L-O-V-E」を聴くことができます。
なお、ナット・キング・コールはこの『L-O-V-E』が遺作となりました。ガンで闘病中での制作で、録音の約2か月後に45歳で亡くなりました。キング・コールは多国語の歌唱でもっともっと世界に広く自身の歌を伝えたかったのでしょう。
「イパネマの娘伝説」
ボサ・ノヴァ歌姫、アストラッド・ジルベルトの伝説を検証する【ジャズを聴く技術 〜ジャズ「プロ・リスナー」への道211】 https://serai.jp/hobby/1134977
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文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中。(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。