ライターI(以下I):天正10年6月2日未明。明智光秀が京都本能寺に宿泊する織田信長を討ち取るという前代未聞の事件が発生しました。
編集者A(以下A):天正10年は3月に武田家を滅ぼしています。もともと織田家と武田家は、信長の養女を勝頼正室にするなど蜜月の時代がありました。ところが信玄が「信長包囲網」に加わったため両家の関係は瓦解。信長は武田家を恨んでいたという経緯があります。
I:念願の武田家を滅ぼし、家康の富士遊覧に付き合って、安土に凱旋したのが4月21日です。すぐさま公家の来訪を受けるなどあわただしい日々を過ごします。5月に入って自らの誕生日を祝う宴席などを経て、5月15日から20日まで家康を安土に招いて饗応します。
A:家康も安土を去り、信長が上洛したのが5月29日。安芸を本拠とする毛利と備中高松城(岡山市)で対峙していた羽柴秀吉の援軍として出陣することも想定していた信長でしたが、その前に、京で茶会を開いたり、朝廷と官位や暦の問題について交渉するなどの用事があり、上洛しています。
I:概観するとやっぱり武田家滅亡がターニングポイントなんですね。『どうする家康』劇中では、安土城で信長(演・岡田准一)に折檻されたことを「恥」「恨み」に思った光秀(演・酒向芳)が突発的に本能寺に攻め込んだという設定になっていますが、実際はどういうことだったのでしょうか。
明智光秀が攻め込んだ原因は「四国政策変換説」?
A:書籍『信長全史』では、江戸時代以来根強く指摘されてきた「怨恨説」に加えて「前途不安説」「野望説」「信長非道阻止説」の解説のほか、「足利義昭黒幕説」「南欧勢力黒幕説」「朝廷関与説」「本願寺教如黒幕説」などについても触れています。
I:家康黒幕説は入れてなかったのですね(笑)。
A:そして、もっとも大きくページが割かれているのが「四国政策変換説」です。
I:簡単に説明してください。
A:「四国政策変換説」は三重大の藤田達生教授の著書『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』をもとに解説したいと思います。藤田教授は今年元旦にNHK BSで放映された「徳川サミット」にも出演していました。当時の四国は長宗我部元親が四国統一を果たすべく進軍していました。この長宗我部との取次役だったのが明智光秀。
I:単なる取次役ではなく、光秀の縁者が元親の側近でもあったのですよね。
A:はい。当初信長は、元親に対して、「四国は切り取り次第」のお墨付きを与えていたといいます。ところがそこに割って入ったのが羽柴秀吉です。阿波(現在の徳島県)の三好康長が秀吉を頼って、長宗我部に与えていた「切り取り次第」を反故にすることにしたのです。
I:光秀の面子丸つぶれですね。
A:光秀の面子丸つぶれということは、光秀にとって「信長の裏切り」でもありました。織田家中で出世争いを展開していたのは光秀と秀吉です。秀吉の毛利攻めについても、光秀は当初は和睦すべく動いていたようです。ところが信長は秀吉の策を容れて毛利攻めを敢行していた。これまで出世頭だった光秀ですが、ここにきて暗雲立ち込めたというタイミングだったわけです 。光秀が本能寺を攻めた日は、信長三男信孝が四国へ渡海予定の日でもあったというのが示唆的です。以上、簡単ではありますが、『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』からの受け売りでした。
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