戦後の清須会議では、織田家の後継者に指名されず、主導権を握った秀吉への反感を次第につのらせていきました。そして、同じく秀吉に反感を持っていた柴田勝家や滝川一益(たきがわ・かずます)と手を組むように。親しかった勝家との絆を深めるため、お市の方の再嫁を斡旋したとも言われます。そして、三法師を自分の元から放さず、印文「一剣平天下(いっけんてんかをやすんず)」の印章を使用するように。父・信長の「天下布武」印を意識していたと考えられるでしょう。

また、岐阜城に立てこもって秀吉に抵抗するも、城を包囲されて降伏。三法師を取り上げられ、母の坂氏や娘を人質に出すことになります。一時的に秀吉に従った信孝でしたが、天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝も挙兵。しかし、勝家は秀吉に敗れ、越前北庄で自害し、一益も降伏してしまいます。勝家が越前で敗死した連絡を受けるや、戦意を喪失し、兵士も離散したので信孝は兄・信雄の説得で岐阜城を開城することにしました。

今の岐阜城

その後は知多半島に移り、安養院(愛知県美浜町)で切腹させられます。天正11年(1583)、26歳のことでした。この時、信孝は腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたとも。その血のあとは、今なお掛け軸に残っているそうです。

辞世の句は、「むかしより 主をうつみの うらなれば むくいをまてや 羽柴筑前」。冒頭の歌は、平安時代末、同じ場所で源義朝が家来・長田忠致に暗殺されたものの、源頼朝が父の敵を討った故事を引用したもの。家臣であるはずの秀吉が自分を討とうとしているが、長田忠致のように同様に必ずや報いをうけるであろうと詠ったもので、秀吉への強い怒りが読み取れます。

信孝の墓。大御堂寺(愛知県美浜町)にあり、近くには義朝の墓もあります。

まとめ

信孝は信雄より早く生まれたにもかかわらず三男になったり、本能寺の変で明智光秀を討つには一番近い場所にいたにもかかわらず自力で討つことができなかったりと、重要な場面で運を逃すことがありました。

自身の最期に際して、秀吉への強い恨みや腹をかき切って腸を投げたというショッキングな行為から、チャンスをものにできなかったこれまでの人生の無念さを読み取ることができるかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)

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