侮られたと感じた家康は一部家臣の反対を押し切り、城を出て三方ヶ原台地へ。武田軍を背後から攻撃しようとします。しかし、ここまでが全て信玄の計画通りだったのです。万全の態勢で魚鱗の陣を敷いていた信玄の策略にまんまとはまります。家康は鶴翼の陣を敷いて対抗しましたが、わずか2時間あまりで完膚なきまでに叩きのめされ、浜松城へと敗走することとなりました。
この時、家康は討死することも覚悟したと言いますが、家臣たちがそれを思いとどまらせました。このとき浜松城の留守居役を務めていた家臣の夏目広次は20騎余りを率いて出陣し、家康から兜と馬を借り、影武者として家康の身代わりになったと言います。また、本多忠勝の育ての親・本多忠真は殿軍を務め、壮絶な最期を遂げました。
三方ヶ原の戦い、その後
家康の敗走後も、信玄が浜松城を攻撃することはありませんでした。理由としては、浜松城を攻撃している間に、信長の援軍が大量に来る可能性があったからだと考えられています。
三方ヶ原の戦いで、家康に大打撃を与えた信玄は、その後も西上を続け、翌年の天正元年(1573)、家康の所有していた野田城(現在の愛知県新城市にあった城)を攻略しました。もはや打つ手なし、と思えるような状況でしたが、野田城攻略から間もなくして、信玄が病死してしまうのです。
最強の戦国大名・武田信玄の死は、周囲に衝撃を与え、信長包囲網に亀裂が生じることとなりました。一方、この兆候を見逃さなかった家康。天正3年(1575)の「長篠の戦い」にて、信玄の息子・武田勝頼を破り、さらなる勢力拡大に成功します。
三方ヶ原の戦いでは、絶体絶命の危機にまで追いつめられた家康でしたが、その悔しさを糧にして、天下統一へと邁進することとなったのです。
まとめ
家康にとって、非常に悔しさの残る戦いとなった「三方ヶ原の戦い」。家康は、この戦いでの悔しい敗北を忘れないように、自分の肖像画をあえて醜く描かせたという逸話が残されています(※近年では、半跏思惟の礼拝図という説も強くなっています)。
この戦いを戒めとして戦国の世を生き抜き、念願の天下統一を成し遂げた家康にとって、三方ヶ原の戦いで得た経験は、決して無駄なものではなかったと言えるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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協力/静岡県観光協会
引用・参考図書・サイト/
『日本大百科全書』(小学館)
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