文/鈴木拓也
貨幣経済や物流システムが大きく発展し、商業が隆盛した江戸時代。
身分的には下位にあった商人だが、大名をもしのぐ富を持つ者が出るなど、無視し得ない存在感を放っていた。
もちろん、すべての商人が富裕であったわけでなく、歴史にはその名を片鱗しかとどめない、大多数の人たちがいた。彼らは資本ではなく、知恵と工夫で立身出世をはかった。
そうした江戸の小商い人に焦点を当てたのが、作家・檜山良昭さんの著書『江戸のヒット仕掛け人』(東京新聞刊)だ。
本書は、商魂たくましい彼らの生み出した商品・事業をわかりやすく解説した好著。今回は、そのいくつかを紹介しよう。
禁煙令をビジネスチャンスにした白木屋創業者
煙草は、欧州から日本に伝来したが、その年代は正確には分かっていない。
ただ、少なくとも江戸時代草創期には、市中に流通していたことは確実。和製の煙管(きせる)に刻み煙草を入れたのを喫煙するのが大流行したという。
幕府はこれにケチをつけ、1607年を皮切りに喫煙禁止令の布告を繰り返した。当時は、健康オタクであった家康が大御所の時代。健康被害を案じての禁止令かと思いきや、実情は異なる。檜山さんは、「農民が本来の農業を怠り、タバコの栽培に走るのを恐れたから」と指摘するように、実利面の問題からであった。
禁煙令の罰則が強化され、懲役刑が科されると、さすがの愛煙家も煙管を手放した。
この捨てられた煙管に目をつけたのが、大村彦太郎だ。日本橋に小さな店を借り、白木屋という屋号で古道具屋を営んでいた大村は、禁煙令はいずれ緩むことを予見した。彼は、方々を回って、無用となった煙管や煙草道具を集め、蔵に保管した。
禁煙令は、予想どおり間もなく空文化。愛煙家は晴れて堂々と煙草を吸えるようになった。大村は、ためにためた煙草グッズを蔵出しして格安で売りさばき、大きな利益を得た。その利益を元手に呉服屋を開業し、大成功を収める。
白木屋は、1967年に東急百貨店に買収され、東急百貨店日本橋店へと改称。1999年に閉店して長い歴史に終止符が打たれた。
運送業に大八車を活用した小川平右衛門
「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれるほど、江戸の町では火事が多かった。
特に明暦の大火は、江戸の大半を焼き尽くし、死者は十万人ともいわれる大惨事となった。
これを機に幕府は主要道路を拡張。類焼防止と避難迅速化をはかった。
これに目をつけたのが、小川平右衛門だ。荷馬数頭で運送業を営んでいた小川は、拡幅して通行しやすくなった道路を見て、大八車を数台買い入れた。
橋の石垣の修復工事で、石を運ぶ役務を幕府から請け負ったのを手始めに、御家人が年俸として受け取る米俵の輸送も手掛けた。
これに追随しようと、ほかの運送業者も大八車を導入。さらには新規参入者も増えたと、檜山さんは記している。
それが過当競争を引き起こしたのだろう。急増した大八車が、より稼ごうと速度を出しすぎて、通行人を死傷させる事件が起きた。
幕府は大八車の台数規制に乗り出し、認可制とした。さらに人をひき殺せば死罪という布告も出す。これが日本で最初の交通法規となった。
大八車は、広い道路が整備された江戸・大坂など少数の都市部で活用され、大正時代にリヤカーが登場するまで、陸上運送の主役であり続けたという。
再生紙のトップブランドを築いた上総屋五郎兵衛
元禄中期は、帳簿、書物、行政文書など、紙の需要が高まった時代であった。捨てられる紙も増えるわけで、道に落ちている紙を拾い集め、トイレットペーパーとして再生する人たちがいた。
上総屋五郎兵衛も、その1人であった。彼は、拾った紙屑を水に漬け込み、棒で叩いてドロドロにし、漉き返して天日干しにしてできた再生紙を、吉原の遊郭に売り込んだ。
吉原には、遊女と遊客あわせて少なくとも6千人の需要があり、五郎兵衛の再生紙はそれまでのものよりはるかに安く、質も良かったためよく売れた。
五郎兵衛は、今風に言えばベンチャー気質に富んだ野心家であったのだろう。馬喰町に店を借り、浅草に紙漉き工場を作って商売を広げた。同時にもっと良質な再生紙ができないかと、試行錯誤を重ねる。檜山さんは次のように説明している。
苦節七年、反故紙の中から上質の白紙を選び、これを煮詰めて溶かし、アオイの根の搾り汁ととろろを合わせた接着剤を混ぜ込んでキメの細かい再生紙を作ることに成功したのだ。
雑草であるアオイは周辺の原野に無数に生えていた。その根をすりつぶすと粘着性の保湿性のある液体ができたのだ。現在でも化粧品や皮膚病の薬剤に利用されている。
この新製品は臭いが強いので「臭う紙」と嗤われたが、従来品よりも繊維のキメが細かく、丈夫だった。(本書155~156pより)
再生紙メーカーである五郎兵衛は、製紙業者や問屋から「目の敵」にされていた。これにめげず、問屋を介さず売り子を雇って、習字練習用の紙として売りさばいた。当時は白い書道紙は、今の貨幣価値で1枚数百円もした。そこに目をつけ、「五十枚で四文(100円)」という価格設定が功を奏した。やがて、「五、六十人もの従業員を抱えて繁盛」し、江戸で一二を争う紙店になる。
当時は、一代で富を築くと道楽に走るものが少なくなかったが、五郎兵衛は違った。生涯現役で店に出ていたという。
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昨今は、日本経済の元気のなさを論じる話をよく聞く。檜山さんは、「過去にも似たような時代はあった」といい、それを乗り越えた人は「知恵と創意工夫に富む」共通点があったとも指摘する。我々現代人は、江戸の商人たちに学ぶことは多い―そのことを気づかせてくれる1冊である。
【今日の教養を高める1冊】
『江戸のヒット仕掛け人』
文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)に掲載している。