今川氏の人質を経て、甲斐脱出まで
勝俊は永禄6年(1563)から、家康の命によって今川氏真(いまがわ・うじざね)の人質になりました。その後、永禄11年(1568)には武田信玄の駿河侵攻により、氏真は敗北します。
氏真敗北により、勝俊は解放されるかに見えましたが、その後甲斐に送られることになりました。勝俊は、氏真にそむいた今川方の家臣に伴われて信玄の陣におもむき、信玄は喜んだとも言われています。
元亀元年(1570)、勝俊は家康の計略により、甲斐から脱走を図ります。三河へ帰還できたものの、山岳地帯の大雪の中を進んだことが原因で凍傷になり、足の指全てを失うことになりました。
家康は、勝俊の幼少からの忠勤ぶりに感銘を受け、勝俊に対して、一文字の刀(一の字の銘を刻した、鎌倉時代の備前の刀工の作)と当麻(たいま)の脇差(南北朝時代に、大和当麻寺付近に住んだ刀工の作)を与えます。さらに天正11年(1583)には、駿河久能城・7千石の城主に取り立てました。しかし、勝俊は足の障害のために出陣できず、病気がちとなり天正14年(1586)、32歳で没します。
久松松平氏について
家康は、勝俊など久松姓だった異父兄弟に松平苗字を与え、一門としたことは前述しました。
この久松松平氏ですが、江戸時代にはその子孫たちが各地の藩を治めることになります。統治時期がずれることもありますが、主に領国とした藩は、松山藩・今治藩・桑名藩・多古(たこ)藩・白河藩。このうち、白河藩からは松平定信(老中で寛政の改革を実施)を輩出することに。久松松平氏の支配は明治維新になるまで続きます。明治維新後、久松姓に戻って華族に列せられました。
まとめ
勝俊は人質として駿河から甲斐へ向かった後、脱出時の決死の雪山越えによって、凍傷で足の指を全て失ってしまいます。大きな犠牲をはらいましたが、その行ないは家康を感銘させ、結果的に久松松平氏と家康との結びつきを強いものとしました。そのことが子孫繁栄にまで繋がったことを考えると、大きな意味を残した犠牲だったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)