はじめに-久松源三郎勝俊とはどんな人物だったのか
久松源三郎勝俊(ひさまつ・げんざぶろうかつとし)は、天下人・徳川家康の異父兄弟として知られています。別名、松平源三郎勝俊。母は於大の方(おだいのかた)、父はその再婚相手である久松長家(ひさまつ・ながいえ)です。
そんな勝俊ですが、実際にはどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、若い時から人質として武田家に預けられ、武田信玄のもとで生活。徳川と武田の関係が悪化する中、その身を案じた家康の命により、甲斐から脱出するという人物(演:長尾謙杜)として、描かれます。
目次
はじめに-久松源三郎勝俊とはどんな人物だったのか
久松源三郎勝俊が生きた時代
久松源三郎勝俊の足跡と主な出来事
まとめ
久松源三郎勝俊が生きた時代
久松源三郎勝俊が生きた時代、自分の名前を変えるということは珍しくありませんでした。家康は松平から徳川と改姓していますし、秀吉も木下から羽柴に改姓しています。
改名を通じて、官位の授与や他家への帰属など、自分の立場の変化を伝えることができました。勝俊もまた、松平姓を与えられたことで、家康の一族となったのです。
久松源三郎勝俊の足跡と主な出来事
勝俊は弘治元年(1555)に生まれ、天正14年(1586)に没しました。その生涯を、出来事とともに見ていくとしましょう。
松平姓を名乗る
勝俊の父・久松長家(ながいえ)は尾張の知多郡阿久比(あぐい)城主でした。久松氏は尾張の守護である斯波(しば)家に仕えていたものの、長家の時代には斯波家は力を失ってしまいます。
天文16年(1547)に、長家は松平家から離縁された於大の方と再婚。そして、於大の方との間に、3男3女をもうけました。このうちの1人が、勝俊だったのです。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦い以降、久松氏は今川氏から独立した家康に従いました。これに伴い、家康は勝俊を含めた長家の3人の息子たちに松平苗字を与え、一門とします。さらに勝俊には諱の一字を与え、のちに「松平康俊」と改めさせています。兄弟がいなかった家康にとって、勝俊らは貴重な血縁者だったのです。
【今川氏の人質を経て、甲斐脱出まで。次ページに続きます】