大河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり馴染みのない言葉が多く出てきます。完璧に意味を理解していなくても、番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史用語を正しく理解している方が、より楽しく観ていただけることと思います。
【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた言葉を解説いたします。言葉を紐解けば、戦国時代の情景をより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助となることができれば幸いです。
さて、今回は「殿(しんがり)」という言葉をご紹介します。オリンピックなどの大会で選手が入場する際、最後に入場する選手のことを「殿を務める選手」と表現することがあるなど、現在でも使われる「殿」という言葉。戦国時代の合戦において、「殿」は非常に重要な役割を果たしました。
まずは、「殿」の意味についてご紹介いたしましょう。
⽬次
「殿」とは?
「殿」の役割
「殿」を務めたことで知られる武将
最後に
「殿」とは?
「殿(しんがり)」とは、軍が退却する時、軍列の最後尾で敵の追軍に備える軍のことです。元々「後駆(しりがり)」と呼ばれていたものが音変化して、「しんがり」と呼ばれるようになったと考えられています。
また、「殿」と書いて、「しんがり」と読むことには少し違和感を抱くかもしれません。「殿」という漢字には、身分が高い人に対する敬称という意味のほかに、「尻」という意味も含まれているのです。そのため、最後尾で敵軍と戦う軍のことを、「殿」と呼ぶようになったのではないかと考えられています。
「殿」の役割
負け戦の時や、兵力を温存するために退却しなければいけない時には、できるだけ犠牲者を抑えて移動する必要があります。しかし、敵軍にしてみれば、相手が退却する時こそが、追い打ちをかける絶好のチャンスです。
そのため、合戦中よりも退却する時が最も危険で、犠牲者が増加しやすく、退却に失敗すれば全ての部隊が壊滅状態になってしまうこともあります。主君を守り、少しでも多くの兵を無事に退却させるためには、敵の追軍を迎え撃つ部隊が必要だったのです。
殿部隊が戦っている間に主君やほかの軍は退却するため、味方の援助は期待できず、限られた兵力で敵軍と戦わなければいけません。そのため、命を落とす危険性が高く、思わず引き受けるのをためらってしまうような役割でした。
反対に、戦法に優れ、かつ度胸のある者しか務めることができないため、殿に選ばれるということは大変名誉なことでもありました。殿として活躍した武将は、その後主君から厚遇を受けるということもよくありました。
戦いに負けたから終わりということではなく、今度はどのような戦法で戦うか、どうすれば勝つことができるかということを考え、次の戦いに活かす必要があります。だからこそ、殿は次に繋げるためにも、必死で主君や部隊を守り抜いたと言えるでしょう。
「殿」を務めたことで知られる武将
武将にとっては大変名誉ですが、危険性の高い役割である「殿」。ここでは、殿を務めて武名をあげた武将についてご紹介します。
毛利元就
天文11年(1542)から天文12年(1543)にかけて勃発した「第一次月山富田(がっさんとだ)城の戦い」。この戦いで、中国地方の大名・毛利元就(もとなり)は、嫡子の毛利隆元(たかもと)とともに、殿を務めました。
第一次月山富田城の戦いとは、周防国(すおうのくに、現在の山口県)をはじめ、4か国を有した大大名・大内義隆(よしたか)が勢力拡大のために、山陰地方の豪族・尼子(あまご)氏の領土に攻め入ったとされる戦いのこと。拠点である月山富田城に籠城した尼子氏の抵抗は想像以上に強く、殿を務めた毛利父子は死をも覚悟したと言われています。
想像を絶するほどの過酷な戦いで殿を務め、生き延びた毛利元就はその後、中国地方の覇者としてその名を残すこととなるのです。
織田信長
信長は、弘治2年(1556)の「長良川の戦い」にて、殿を務めたことで知られています。長良川の戦いとは、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤道三と、その息子・斎藤義龍(よしたつ)の確執によって勃発したとされる戦いのこと。圧倒的な兵力で攻撃してきた義龍軍に危険を感じた道三は、娘婿の信長に援軍を要請しますが、信長が到着する前に討死してしまいます。
道三の死を知らされた信長は、部隊を無事に尾張国へと退却させるため、自らが殿となって敵の追軍と戦いました。信長が殿を務めたことで、織田軍は迅速かつ安全に本国へと帰還することができたのです。
豊臣秀吉
元亀元年(1570)、信長は自身の命に背いた朝倉氏を討伐するため、朝倉氏の領土に攻め入ります。しかし、金ヶ崎城を攻略したところで、同盟を結んでいたはずの浅井長政に裏切られ、信長は絶体絶命の危機を迎えることに。
「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる信長の撤退戦で、殿を務めたのが木下(豊臣)秀吉です。秀吉は自ら志願して殿として戦い、主君である信長を守るために奮闘しました。その功績を称えられた秀吉は、信長から黄金数十枚を賜り、忠臣として深く信頼されるようになったと言われています。
本多忠勝
今川氏から離反し、信長と同盟を結んだ家康は、戦国最強と名高い武田信玄の存在に頭を悩ませていました。その頃、信長を倒すために、足利義昭や朝倉義景などの反織田勢力との連携を強めていた信玄。
元亀3年(1572)、信玄は信長と手を組んでいた家康の領土に侵攻し、要所である二俣(ふたまた)城を攻撃します。忠勝は家康に命じられ、武田軍の偵察に向かいますが、そこで武田軍の先発隊と鉢合わせてしまうのです。
二俣城へ出撃していた家康はすぐさま退却を始めますが、一言坂(ひとことざか)で追いつかれたため、殿を務めていた忠勝は武田軍と一戦を交えることに。「一言坂の戦い」と呼ばれるこの戦いで、忠勝は家康率いる本隊の撤退に貢献しました。
その時の忠勝があまりに強かったため、敵軍の小杉左近(さこん)は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(本多忠勝)」という狂歌を詠み、忠勝の勇姿を称賛したそうです。
最後に
「殿」について解説しました。主君や部隊を守るため、決死の覚悟で戦い抜いたとされる「殿」。相当の実力と度胸がなければ務まらない役目であると言えるでしょう。
また、たとえ負け戦であっても、その経験を糧として次に繋げるために、殿は必要不可欠な存在だったということに関してもご理解いただけたのではないでしょうか? 大河ドラマや時代劇などで「殿」が登場した際には、より一層興味深く見ていただければ幸いです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引⽤・参考図書/
『日本国語大辞典』(小学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)