大河ドラマや時代劇を観ていると、現代では使うことなどない言葉が多く出てきます。その言葉の意味を正しく理解していなくとも、場面展開から大方の意味はわかるので、それなりに面白くは観られるでしょう。
しかし、セリフの中に出てくる歴史用語をわかったつもりで観るのと、深く理解して鑑賞するのとでは、その番組の面白さは格段に違ってくるのではないでしょうか?
【戦国ことば解説】では、「時代劇をもっと面白く」をテーマに、“大河ドラマ”や“時代劇”に登場する様々な言葉を取り上げ、具体的な例とともに解説して参ります。時代劇鑑賞のお供としていただけたら幸いです。
さて、今回は「兵糧」という言葉をご紹介します。一番はじめに思い浮かべるのは「兵糧攻め」という言葉かもしれません。まずは「兵糧」についてご説明しましょう。
目次
「兵糧」とは?
「兵糧」の調達方法の変遷
「兵糧」を使った戦国ことば
最後に
「兵糧」とは?
「兵糧(ひょうろう)」とは、陣中における軍隊の食糧のことを指します。「兵糧」の歴史は古く、古代令制では糒(ほしいい)6斗と塩2升が自己負担する軍糧として定められていたそうです。
「兵糧」の調達方法の変遷
古代から兵糧があったことがわかりましたが、調達方法は時代に合わせて変遷していったようです。続いて、時代ごとに解説します。
平安時代末期〜鎌倉時代
平安時代末期になると、朝廷が臨時の国家的用途のために徴収する税制が出てきます。戦時の兵糧米徴集もこれに当たります。
記録として古いものは、治承4年(1180)に平氏が源氏蜂起時に諸国に課した兵粮米です。この方式は、源義仲・源頼朝軍による平家追討時にも継承されました。文治元年(1185)には、源頼朝が義経追捕の手段として、諸国の荘公一律に反別(たんべつ)5升の兵粮米徴集を朝廷に要求し、認可された記録が残っています。
しかし、これらの時期は朝廷や荘園領主の発言力の方が強かったため、あくまでも臨戦時のみの短期的な賦課にとどまったようです。
南北朝時代
南北朝時代になると、鎌倉時代と比べて戦闘が大規模かつ恒常化します。そのため、諸国の守護たちは、己の権限で頻繁に兵糧を徴収するようになり、恒常的な税の一つになりました。
正平7年(1352)には、室町幕府が「半済(はんぜい)」という、守護を通じて荘園年貢の半分を、その配下の武士の兵粮料や恩賞とするという法令も発布されました(※特定の国のみ、1年限定)。幕府は禁圧していましたが、次第に兵粮料所は恒常化していきます。
戦国時代
南北朝時代の合戦では、出陣した兵士は兵糧を自弁することが原則でしたが、戦国時代に入ると足軽や人足に対しては兵糧を給付することが原則になりました。この原則を実行できない大名は、自然に、滅亡していきます。
また、戦国大名は籠城に備え、城内の米蔵に兵糧を備えるとともに、出陣の折には荷駄隊によって兵糧を運ばせました。
織田・豊臣政権が誕生すると、貨幣経済が進展。このことで、出陣の折には商人から兵糧を購入することも出来るようになりました。行軍の途中でも兵糧を買い足せるようになったのです。
「兵糧」を使った戦国ことば
ここでは、「兵糧」に関連したことば、「兵糧攻め」「兵糧奉行」「腰兵糧」について解説します。
兵糧攻め
「兵糧攻め(ひょうろうぜめ)」とは、敵方を包囲することで、食糧補給を断ち、戦闘力を弱めたうえで、武力を使わずに降参させようとする攻め方のことです。「食攻め(じきぜめ)」、「兵糧詰(ひょうろうづめ)」ともいいます。
兵糧攻めは、城攻めの基本で効率も良かったことから、常套戦術として多用されました。兵糧攻めの中でもとりわけ有名なのが、羽柴(のちの豊臣)秀吉による三木城攻めと鳥取城攻め。それぞれ「三木の干殺し」、「鳥取城の渇殺(かつえごろし)」と呼ばれました。その凄まじさとむごたらしさは、今も語り継がれています。
三木城では籠城した兵士が壁土の藁(わら)を食べたという言い伝えが残されていたり、鳥取城では草木はもちろん牛馬まで食べ尽くし、最後は死肉を食べるほどの飢餓状態に陥ったと言われています。
鳥取城は三木城よりも短い期間の籠城戦であったのに、なぜここまで凄惨を極めたのか。それは、農民らを鳥取城内に逃げ込むよう画策して城内の兵糧を枯渇させたり、前年に侵攻した際に兵糧を徴収するなど、秀吉側が完璧な事前工作をしていたからだそうです。
その結果、2つの城では餓死者が出るまで城方は抵抗を続けたものの、三木城は2年、鳥取城は3か月で開城しました。
兵糧奉行
兵糧奉行とは、戦時に兵粮の調達・輸送に携わる奉行のこと。兵糧奉行の職名が使われたのは戦国時代からですが、その前から兵糧を担当する兵はいました。
出陣時、将兵は2、3日の食糧を持参しますが、それ以上になる場合には兵粮奉行が小荷駄隊を率いて輸送したり、兵糧の買い付けなどを行ないました。合戦に支障をきたさないようにするのが役目です。
兵300に対し、1日米2石、馬100匹で1日大豆3石というのが標準だったと言われています。
腰兵糧
腰兵糧(こしびょうろう)とは、腰につけて携行する当座の兵糧のこと。将兵は2、3日の食糧を自分で持参しました。
最後に
今回の戦国ことば解説は「兵糧」について解説しました。「兵糧」は、合戦が描かれる場面でしばしば登場する言葉なので、それだけに「知ってるつもり」、「なんとなくわかっていたつもり」といった感じになっていたかもしれません。
意外にも「兵糧」の歴史が古いことや、戦国時代において重要な戦術であったこともご理解いただけたのではないでしょうか。大河ドラマや時代劇で「兵糧攻め」が出てきた際には、きっと面白さも倍増するのではないかと思います。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)