⼤河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない言葉が多く出てきます。なんとなくの理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史用語をしっかり理解していたら、より楽しく観ていただけるのではないでしょうか。
【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた⾔葉を解説いたします。言葉を紐解けば、戦国時代の場面描写がより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。
さて、今回は「忍者」という言葉をご紹介します。「忍者」といえば、「伊賀忍者」や「服部半蔵(はっとりはんぞう)」が思い浮かぶという方も多いのではないでしょうか? まずは「忍者」についてご説明いたしましょう。
⽬次
「忍者」とは?
「忍者」が用いた「幻術」とは?
「忍者」の種類
「伊賀忍者」とは?
最後に
「忍者」とは?
「忍者」とは、特殊な技術を用いて、戦国大名に奉仕した集団のことです。忍者といえば、漫画の世界に登場するような特殊能力の持ち主というイメージを持ってしまいがちですが、人間として考えられる範囲内で訓練を行い、強靭な肉体と身体能力を手に入れていました。
三重県北西部に位置する伊賀や、滋賀県南東部に位置する甲賀などが有名ですが、忍者が住んでいた場所は険しい山岳地帯であるため、野山を駆けているうちに平野部に住んでいる人々と比べて足腰が丈夫になったと考えられています。
忍者の世界を守るため、外部から侵入してきた者を討伐したり、地形を活用して戦ったりすることもあったそうです。
「忍者」が用いた「幻術」とは?
「幻術」とは、人を惑わせるために忍者が用いたとされる技術のことです。「分身の術」などは最もよく知られた「幻術」ではないでしょうか? この「分身の術」は、集団催眠術の一種であると考えられています。
「幻術」の名手として、「鳶加藤」の異名を持つ加藤段蔵が知られていますが、彼は上杉謙信に奉仕することを望み、様々な術を披露しました。しかし、段蔵の術があまりにも驚異的なものであったため、謙信は彼を抹殺しようとしたそうです。段蔵は、武田信玄をも恐れさせたという逸話が残っています。
また、現代でいうところの催眠術にあたる「幻術」は、あらぬ噂を立てて敵の結束力を弱めるなど、合戦における策略として利用されることもありました。
「忍者」の種類
忍者と一口に言っても、その実態は複雑です。ここでは、忍者や忍者と似たような役割を果たした集団について紹介します。
乱波
「乱波(らっぱ)」とは、東国での忍者の名称です。「素波(すっぱ)」とも呼ばれることもありますが、乱波でよく知られているのは、現在の神奈川県にあたる相州の乱波集団でしょう。相州乱波の棟梁・風魔(ふうま)小太郎は身長が2メートルあり、大声を発すると5キロメートル先までこだましたという逸話が残されています。
その他、時代劇などでは忍者を「草の者」と言ったりしますが、忍者を「草」と呼ぶのは現在の神奈川県での呼び方だったようです。
野武士
「野武士(のぶし)」とは、地侍や農民によって編成された武装集団のことで、「のぶせり」とも言います。
活動は広範囲に及び、ゲリラ戦を得意として放火や強盗などの行為を平然と行っていました。その活動内容は、忍者と共通するものが多く、線引きが難しくなっていますが、特定の主君に奉仕することなく、傭兵として戦国大名と契約を交わして活動していた点が、忍者とは異なります。
野武士の中では、織田信長や豊臣秀吉にもその才能を買われ、のちに一国一城の主へと出世することになった蜂須賀(はちすか)正勝などが有名です。
山伏
「山伏(やまぶし)」とは、山野を巡って修行する僧侶のことを言います。山伏が修行に励んだ道場は、比叡山や高野山、熊野や吉野、富士山など、全国に及びました。険しい山岳にて修行を行っていたため、天狗に間違えられるほどに身体能力が発達していたと言われています。
山伏には特有の情報網が存在していたことから、戦国時代には大名家に雇用され、情報提供者となる者も少なからず存在しました。伊勢にいた神職・御師(おし)も、全国を巡り歩いていたことから、スパイとして暗躍していたと言われています。
「伊賀忍者」とは?
服部半蔵の出身として名高い「伊賀忍者」。伊賀忍者の世界は、ランクによって分類されていました。そのランクが、上忍・中忍・下忍です。下忍は、忍者世界の末端に位置する実戦要因であり、中忍が彼らを指揮する部隊長の役割を果たしていました。
そして、服部・藤林・百地(ももち)の三家が上忍とされ、伊賀忍者の世界を統治していたとされています。戦国時代には、藤林長門(ながと)が伊賀国内の南半分を支配し、百地三太夫が北半分を治めていました。両者は抗争を繰り返しながらも、外敵の侵入などの非常事態には団結して戦い、伊賀忍者の自律性を堅持していたそうです。
しかし、天正9年(1581)、織田信長による伊賀征伐が始まると、百地三太夫は最期まで奮闘したものの討死してしまいます。これ以降、伊賀忍者の自律性は失われ、帰農して農民としての生活を送るか、各地の大名に家臣として雇用される者が大半を占めました。
服部半蔵は、忍者!?
ちなみに、服部半蔵は「忍者」というイメージが強いですが、彼は武士として生涯を送った人物です。伊賀出身で、伊賀者・甲賀者の忍者を配下に抱えましたが、服部半蔵自身が忍者としての活動をしたという記録は現在のところ残っていません。
記録に残っているのは、「本能寺の変」の時に、明智軍によって退路を断たれた家康を伊賀者、甲賀者で護衛して、「伊賀越え」をし、無事三河に帰還させたことなどです。
最後に
「忍者」にはあまりにも現実離れした逸話が多いことから、歴史研究の世界では信憑性に欠けるとして無視されることが多いようです。しかし、戦国大名の多くが「忍者」を組織的に活用していたのは事実であり、「忍者」の活躍がなければ、歴史自体が変わっていたということも考えられます。
大河ドラマや時代劇などで「忍者」が登場した際には、ぜひ思い返してみてください。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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