国吉城址から佐田(黒浜)方面を望む

『どうする家康』第14回で描かれた金ヶ崎の戦いは、織田信長、木下藤吉郎、徳川家康の戦国三英傑がそろい踏みした合戦だ。秀吉が殿(しんがり)を務めて朝倉軍の追撃を防ぎ、信長は無事に京に逃げ切ることができたとされるが、果たしてそれは事実なのか? 越前、若狭の国境に位置し、織田方の最前線として難攻不落の城と称された国吉城歴史資料館の大野康弘館長が地域に伝承される金ヶ崎の戦いの顛末についてリポートする。

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NHK大河ドラマ『どうする家康』は、40年ぶりに徳川家康が単独主人公となった大河であり、個人的にも戦国武将で一番好きな人物が主人公ということで、大変うれしく思っている。そんな家康が、自分が勤める北陸の小さい城や町に足跡を残したという歴史を紹介したい。

第13回「家康、都へゆく」で、織田信長が家康に対して越前朝倉攻めを宣言し、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が地図を眼前に広げるシーンを覚えておいでだろうか? 地図には京から越前国までが描かれ、近江国や若狭国も入っている。若狭国の部分をよくよく見ると、四角の囲みで「国吉城」と記され、周辺には「丹生」「黒濱」といった地名が記される。この地名は果たして……?

近年、いわゆる「金ヶ崎の退き口」について、様々な切り口から再検討され、その実態が明らかになりつつある。天下統一を果たした豊臣秀吉の一代記『太閤記』では、信長に殿軍を命じられた秀吉が、追いすがる朝倉軍の激しい追撃を苦難の末に逃げ切り、無事に京へ生還を果たしたという逸話として語られてきた。今回は、「新説 金ヶ崎の退き口」ともいうべきもので、おそらく読者の方が知っている、聞いたことがある話とは少し異なるものである。この戦いでは、若越国境の境目の城にして、難攻不落を誇った国吉城が重要な役割を果たし、信長、秀吉、そして家康も足跡を残し、ここから運を開き、天下統一へ飛躍した地でもある。

朝倉との戦いで落ちなかった難攻不落の城

国吉城は、若越国境を守る若狭側の「境目の城」である。城がある福井県美浜町は、敦賀市の西隣に位置し、かつての越前国と若狭国との国境であった。敦賀から若狭国内を横断する「丹後街道」が主要な街道で、ほぼ現在の国道27号と同じ道筋である。国吉城が立地する城山は、その丹後街道を直下に見下ろす標高197.3メートルの山で、往来を監視するにも絶好の位置にあった。

築城者は、若狭国守護大名武田氏の重臣、粟屋越中守と伝わる。南北朝期に常国国吉が築いた古城を利用して、弘治2年(1556)に築いたという。城山の南麓に城主居館跡と伝わる屋敷地があり、城山頂上部の本丸から北西に伸びる尾根上に段々の曲輪群が連なる(連郭曲輪群)。丹後街道が通る腰越坂や椿峠とも尾根続きで、両峠を押さえることが出来る立地であった。

国吉城の勇名を轟かせた「国吉籠城戦」は、永禄6年(1563)9月、朝倉勢の侵攻を粟屋勢が城に立て籠もって撃退したのが始まりで、朝倉氏が滅亡する天正元年(1573)まで、ほぼ毎年襲来する朝倉勢を粟屋勢が城に籠もって迎え撃ち、一度も落城することはなかった。この戦いの様子は、江戸時代の初めに粟屋勢に参加した地侍、田辺半太夫が残した筆記を多くの人が写本し、軍記『国吉籠城記』諸本として世に広まった。

信長軍は国吉城から出陣した

元亀元年織田信長侵攻図

さて、金ヶ崎の退き口である。一般的には豊臣秀吉最大の武功のひとつとして知られる。今から453年前の元亀元年(1570)4月25日、「天下布武」を目指す織田信長率いる約3万の軍勢が、朝倉氏の領国である越前国敦賀郡に攻め込み、朝倉氏が立て籠もる天筒山城をわずか1日で攻め落とし、翌日には金ヶ崎城が戦わずに降伏開城した。

いよいよ木ノ芽峠を越えて朝倉氏の本拠である一乗谷まで攻めこもうとした矢先、信長の妹婿である北近江の浅井長政の逆心が知らされ、信長は殿軍を秀吉に命じ、少数の供廻りで朽木を経て京に撤退する。最後に残った秀吉軍は、朝倉軍の激しい追撃をくぐり抜けて無事に退却を果たす……という逸話で、『太閤記』を土台とする豊臣秀吉を主人公にした小説や映画、時代劇では必ず取り上げられるエピソードである。

「歴史は勝者が作る。」の言葉のとおり、秀吉の活躍として世に広めた『太閤記』は、農民から身を起こし、遂には天下人まで上り詰めた秀吉の立身出世譚であり、秀吉に都合よく脚色されていることは言うまでもない。

そのような信長、秀吉の実像から「金ヶ崎の退き口」に至る動向に迫りたい。永禄11年(1568)、若狭国守護武田元明は、朝倉氏によって一乗谷に連れ去られ、若狭は守護不在の無主状態となった。実質、朝倉氏の属国と化したが、粟屋越中守をはじめ、武田家臣団の多くは朝倉氏の支配に抵抗した。

同じ頃、信長は足利義昭を奉じて上洛、義昭は室町幕府第15代将軍となる。守護不在の若狭国支配は幕府に委ねられ、武田氏に仕える若狭衆36人に対し、京都奉行を務めた木下藤吉郎らが知行安堵と武田家当主に対する忠誠を求めた文書が残されている。

永禄13年(1570)に入り、義昭が各地の武将に上洛を促したが、朝倉氏や朝倉氏寄りの武田信方、武藤友益ら若狭衆の一部も応じなかった。結果、将軍の命に服さない武藤氏の討伐と称して、4月20日に信長率いる軍勢が京を出陣した。

将軍の上洛要請に応えた摂津国守護の池田勝正、そして三河の徳川家康らも同行したと伝わり、単に織田軍ではなく足利将軍を背景にした「幕府軍」としての出陣だった。また、幕府奉公衆として義昭に仕える明智光秀が先発として若狭国熊川(福井県若狭町)から越前や北近江方面の情勢を伝える文書が残る。

『信長公記』によれば、琵琶湖西岸を北上し、20日は和邇(滋賀県大津市)、21日は高島郡田中(滋賀県高島市)に宿泊、22日は若狭国に入って熊川の松宮玄蕃の屋敷に泊ったと伝わる。熊川では、若狭の諸将がうち揃って出迎え、家康は得法寺を陣所としたと伝わり、近年まで腰掛けの松が残っていた。

年号が永禄から元亀に改まる1570年4月23日、武藤氏のいる大飯郡には向かわず、武藤氏の背後にいて上洛要請にも応じない朝倉氏征伐が真の目的で、丹後街道を北上して三方郡佐柿の国吉城に入城した。

『国吉籠城記』によれば、信長は粟屋越中守の多年に渡る朝倉勢との戦陣の労をねぎらい、田辺半太夫ら共に戦った地侍達にも目通りを許したと伝える。国吉城に滞在すること2泊、25日に軍勢は国吉城を発して敦賀に攻め込んだ。

天筒山城を幾重にも取り囲んで四方から攻め掛かり、1日で攻め落とした。信長は妙顕寺(福井県敦賀市)を本陣として、翌26日に金ヶ崎城を包囲すると、城主は戦わずに降伏開城した。いよいよ木ノ芽峠に向かおうとした矢先、妹婿にして北近江の領主であった浅井長政が、背後を襲おうと進軍中との報が入ると、信長は当初、この報を信じず、続報が続いたため遂に撤退を決意し、少数の供廻りのみで若狭に戻り、朽木谷を越えて30日に京都に辿り着いた。同時に、各武将が率いる部隊も順次退却した。

殿軍は、金ヶ崎城から約10km逃げればよかった

以上が、「金ヶ崎の退き口」に至る顛末であるが、撤退戦については近年の調査研究よりその実像が解明しつつある。

まず、『一色藤長書状』によれば、殿軍は秀吉隊だけではなく、池田勝正や明智光秀ら複数の隊が担ったという。また、織田勢が入城した金ヶ崎城は、近年実施した航空レーザー測量の成果から、南北朝期の城をほぼ改修せずに利用した可能性が指摘されており、迎撃に不向きだったと考えられる。追撃軍を迎え撃つには、最初に敦賀攻めの拠点とした国吉城が最適であった。

国吉城は、長年の朝倉勢の侵攻を食い止めた難攻不落の城であり、度重なる戦いを経験した実績のある城であった。そして、敦賀攻めの本陣として数日前に出陣した城で、地理に明るい国吉城主粟屋越中守をはじめとする多くの若狭衆が同行していたので、地理不案内という事もなかったと考えられる。しかも、金ヶ崎城から国吉城まではわずか10キロほどに過ぎず、現在なら車で約30分、徒歩でも2時間程度の距離である。

また、『太閤記』に描かれるような激しい撤退戦を展開したかも疑問で、撤退時の敦賀郡は幕府軍の占領状態、追撃軍と目される朝倉本軍も浅井軍も姿を見せていなかった。むしろ、信長軍の敵は落ち武者狩りの民衆や宗教勢力だったのでないだろうか。

それでも、約3万の軍勢が順々に撤退を開始した場合、後列に近いほど追撃は受けやすかったと考えられる。殿軍を命じられたという秀吉は、織田家中でも新参で身分も低く、実態は織田家中の順位として必然的に撤退軍の後衛に回されたのではないだろうか。

つまり、「金ヶ崎の退き口」とは、敦賀金ヶ崎城から信長軍の本陣である難攻不落の国吉城までの約10キロを逃げてくればよく、撤退の後衛辺りは追撃軍や落ち武者狩りの民衆らに襲われた可能性はあっても、大打撃を被るような大きな追撃戦はなかったと考えられる。何より国吉城が健在であり、幾度攻めても落ちない国吉城に入られては、朝倉勢も諦めるほかなかった……。

これが一番真実に近いのではないだろうか。

家康と秀吉が囲碁? 伝承通りの大石が出土か? 次ページに続きます

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