お田鶴の死後、落城した引間城は家康の手に渡り、名を浜松城に変えて、家康の本拠地となることに。名前を変えた理由として、引間城(曳馬城)という名前からは、「馬を引く」という敗戦を意味する言葉を連想させるからという説があります。
家康は、敵ながらも亡き夫の代わりとなって勇猛果敢に戦い抜いたお田鶴の勇姿を称え、塚を築いて手厚く葬りました。また、家康の正室で、お田鶴とは幼なじみであり親友でもあった築山殿(つきやまどの)は、彼女の壮絶な死を嘆き悲しみ、塚の周りに椿の花を100株近く植えたそうです。
植えられた椿は毎年美しい花を咲かせたことから、お田鶴の塚は「椿塚」と呼ばれるようになりました。このことからお田鶴自身も「椿姫」と呼ばれることとなり、のちに浜松城下に建てられた「椿姫観音堂」の名前の由来ともなったのです。
椿姫観音堂は第二次大戦で焼失してしまいますが、その後再建され、現在は住宅や商店が並ぶ市街地の一角に小さな祠が建てられています。毎年秋には追悼供養が行われるなど、地元住民から愛されているお堂です。
まとめ
「桶狭間の戦い」をきっかけとして、生活が一変した飯尾連龍とお田鶴。波乱の時代に翻弄されながらも、懸命に生き抜こうとしたということがわかります。また、敵が攻め入っても臆することなく、自ら先陣を切って勇猛果敢に戦ったお田鶴の姿は、当時の武家社会における女性の鑑とも言えるのではないでしょうか。
家康に関わる様々な人物についても焦点を当てることで、より一層歴史を楽しむことができるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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協力/静岡県観光協会
引用・参考サイト/
浜松市公式ホームページ
静岡新聞