傅役として面倒を見ていた家康の長男・信康が切腹を命じられる
親吉にとって、家康の伯父である信元の殺害に加担したことは心苦しいことでしたが、さらにつらいことが続きます。
親吉は家康の長男・信康の傅役として面倒を見ていましたが、天正7年(1579)に、家康の長男・信康が家康の命で切腹を命じられてしまいます。要因には、信元と同様に武田方とのつながりを疑われたとも。この時親吉は、自分の首を差し出すことで信長に許しを請うたと言われています。
信康の切腹後、親吉は蟄居謹慎。その後、再度家康に請われて再び仕えることになりました。信康の従士十四人を付属せしめられたとか。
親吉はその後、城主としての道を歩むことになります。まず、家康の甲斐平定後、そこの郡代に任じられました。天正18年(1590)には、上野国 (こうずけのくに)の 厩橋 (うまやばし) 城主となり、3万3000石を領有。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は甲府城代(領知6万3000石)に。
さらに家康の九男・義直 (よしなお) の傅役となり、義直の甲府から清洲 (きよす) への転封を契機に、犬山城主(12万3000石、一説に9万3000石とも)となり、統治しました。
親吉には子供がいなかったので、家康は八男の仙千代(せんちよ)を平岩氏の養嗣子(ようしし=家督相続人となるべき養子)とします。しかし、その後、仙千代は死去してしまいました。その後、親吉は養子を迎えることはしませんでした。
慶長16年(1611)に親吉死去。跡継ぎはいなかった平岩家は無嗣断絶になったのです。
その他
徳川氏の歴史について、清和源氏の起源から家康の征夷大将軍補任までを記述した『三河後風土記』という歴史書があり、親吉はこの著者ではないかとも言われています。また、親吉の出自の平岩氏ですが、その祖先である弓削氏(ゆげうじ)は河内(かわち)を本拠地とし、古代の朝廷で弓の生産を担っていました。豪族で有名な物部氏とも関係が深かったそうです。
まとめ
親吉は家康にとって昔からの友人のような存在で、深く信用されていました。そのこともあって、家康の長男・信康の傅役を任されたのでしょう。しかし、それゆえに家康の伯父である信元の殺害に関わることにもなりました。天下人の友人としての苦悩は一体どのようなものだったのでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)