秀吉に攻められ、夫・柴田勝家とともに自害
夫となった勝家は、秀吉に対抗しようとし、孤立状態にありました。そして天正11年(1583)4月、秀吉と全面対決するべく出撃します。しかし、戦局の判断の失敗から近江・賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れ、北ノ庄城へ逃れました。
お市は、夫・勝家とともに北ノ庄城に籠城(ろうじょう)。しかし秀吉軍の攻撃を受け、勝家とともに自刃を選びました。没年齢は37歳とされます。秀吉の功業を記した『秀吉事記(ひでよしじき)』には、勝家はお市に城を出るように説得したが、ともに自害することを主張したと伝えています。
お市の娘「浅井三姉妹」
お市は三人の娘を残す形で命を落としました。その後、娘らは秀吉に引き取られ、それぞれ有力な人物と結ばれます。長女・茶々(淀君)は秀吉の寵愛を受け、次女・初は若狭小浜藩主・京極高次の正妻に、三女・江は第2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)に嫁ぎました。天下をめぐる豊臣家と徳川家の覇権争いに深く関わったことから、非常に有名な三姉妹となります。
お市の生存説…!?
お市には生存説があることをご存知でしょうか。
北ノ庄城が落城する前夜、お市は城の裏手を流れていた川から脱出。勝久寺(現在の坂井市三国町)に落ち延び、三国湊(みくにみなと)の豪商・森田家に匿われたという逸話です。森田家は、信長の支援者で、織田家を財政面から支えた商人の一人でした。その後、森田家内の旧浅井家家臣の手引きで、お市は近江国へと移ります。こうしてお市は50歳ごろまで生き延びたとされるのです。
この生存説は、浅井家の遺臣によって生み出されたものではないかと考えられています。浅井家の残党は、結束を維持し続けていくために、お市という存在を必要とし、生存説を作り上げたのかもしれません。
まとめ
信長の妹として生を受け、波乱の時代に生きた「お市」。その生涯は儚くも、乱世の世を生き抜いたものとして語られます。雄々しき武将らが天下を取り合う戦国という時代において、陰から一族を支える女性は、一味違った輝きを放っています。その中でも象徴的な人物であるお市は、私達の目により一層魅力的に映るのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本人名大辞典』(講談社)