面子を潰された後鳥羽上皇
白拍子といえば、平家を滅亡させ、京都に凱旋した源義経と出会った静御前などが有名だが、ざっくりといえば、「教養にも遊芸にも秀でたアイドル」といったところだろうか。
後鳥羽上皇が見初めた亀菊に与えられた荘園は、現在の大阪府豊中市に比定されている。交通の要衝で裕福な荘園だったと思われる。後鳥羽上皇がいかに亀菊に執着していたかがうかがえるが、院は、実朝後継者に自らの皇子を差し向けるかわりに、亀菊に与えた荘園の地頭職の解任を要求したというわけだ。
そもそも後鳥羽上皇は、実朝と和歌を通じての交流が頻繁だった。
〈ひんがしの 国にわがをれば 朝日さす はこやの山の 陰となりにき〉
〈山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも〉
実朝の詠んだ和歌からは、後鳥羽上皇への強い信頼、臣従の思いが伝わってくる。自らを慕っていた実朝を殺害した「鎌倉の闇」への不信感、それに加えて新たに発生した亀菊問題。
おそらく上皇は、自らの皇子を実朝後継者として派遣するのだから、亀菊の問題などすんなりと認められると考えていたのではなかろうか。にもかかわらず、義時は上皇の要請をはっきりと拒絶した。
対亀菊という観点でいえば、上皇の面子は丸つぶれ。義時に対する上皇の怒りは、このように膨らんでいったのではないかと思うとやるせない気持ちにさせられるのである。
構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり