比企尼の夫比企遠宗の居館跡と伝えられる埼玉県滑川町の三門館跡一帯。

鎌倉幕府初代征夷大将軍として、わが国初の武家政権を樹立した源頼朝。歴史教科書に登場する偉人には、必ずその治績を陰に日向に支えてきた功労者がいるが、鎌倉殿源頼朝の場合は、その功労者として、いの一番に比企尼をあげなければならないだろう。

比企尼は頼朝の乳母のひとりで、もともと京都で暮らしていた。東国に下向したのも、平治乱後に伊豆に流罪になった頼朝に忠節を尽くすためというから、筋金入りの「頼朝贔屓」の人物だ。

後に、比企氏を族滅に近いほど完膚なきまでに討ち果たした北条氏寄りの立場が鮮明な鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』でさえ、比企尼の功績を最大限に表現している。

『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条、北条政子が嫡男万寿を出産後に、ご産所だった比企邸から御所に戻った時の記事は、万寿の乳母夫が比企能員に決まったいきさつについて記されている。

記事には、平治の乱後、頼朝が伊豆に流罪になった際に、比企尼が、夫比企遠宗とともに京から下向し、比企郡に拠点を構えたこと、治承4年の頼朝挙兵までの20年間もの間、支援物資を送り続けたことが記されている。

そして、比企能員が万寿の乳母父に任じられたのは、〈彼の奉公に酬い被るに就き〉、その忠節に報いるためと明確に記録されている。

『吾妻鏡』の面白いところは、その記事の中に〈此の事、若干の御家人有りと雖も〉と「ほかにも適任の御家人はいるのだけれども」 という一文を入れて来るところだが、流罪以来20年もの間忠節を尽くして来たという功績には、誰も文句を言えなかったと思われる。

埼玉県「比企郡」に残されたゆかりの地

流人の頼朝に対して20年もの間、支援物資を送り続けたという比企尼。頼朝のためにしたことはそれだけではない。

長女の婿安達盛長を頼朝の側に仕えさせ、二女の婿河越重頼、三女の婿伊東祐清にも頼朝の与力として尽力するよう言い含めていたという。

比企尼による頼朝への支援物資の詳細は伝わっていない。米だとしたらどのくらいの分量を年に何回送って来たのか、支援には衣服の類も含まれていたのか、物資の発送元は比企郡なのか、それとも違う場所からなのか、物資は陸路で運ばれたのか、水運を利用したのか、具体的なことは何もわかっていない。

それにしても、20年もの間、支援物資を送り続けたとは、その労苦は尋常ではなかっただろうし、頼朝と政子がその忠節に報いようとしたことも『吾妻鏡』の複数の記事で確認できるのもうなずける。

政子の最初の出産の産所が比企邸だったこともそうだし、頼朝と政子がともに比企邸を訪ねて遊興を楽しんだことを記す記事も複数ある。当初は、政子と比企一族も良好な関係にあり、何より、頼朝自身が、比企尼の支援がなければ挙兵に至る事すらできなかったことを理解していたのだと思う。

鎌倉幕府創設の最大の功労者はやっぱり比企尼だったのではないだろうか。

歴史に「if」を持ち出すのはタブーだが、頼朝がもう少し長生きしていたら、比企一族のそれぞれの運命、鎌倉幕府の歴史も変わっていたと思うと感慨深い。

比企一族の受けた仕打ちを考えたら、これしきのことで……

三門館跡にほど近い泉福寺の案内板。

比企尼の所領は、ざっくりと現在の埼玉県比企郡に重なるといわれている。『鎌倉殿の13人』の放送にあわせて、9つの市町村が『「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げている。

その中の滑川町に比企尼と夫の比企遠宗の館跡だという「三門館(みかどやかた)」跡がある(※1)。滑川町中心部の町役場から車で10分ほどの地にあり、土塁や堀跡を遺した中世の館跡だという。『鎌倉殿の13人』の放送にあわせて、昨年の秋に説明板も設置されたようだ。

その説明板には、8ページにおよぶ手作りのリーフレットが置かれていた。大河ドラマゆかりの地ともなれば、予算を投じてパンフレットを制作する自治体が多い中、手作り感満載ながら、必要な情報がコンパクトにまとめられている、ぬくもりあふれるリーフレットになっている。

周囲には牧歌的な田園風景が広がり、とても東京都心から約60kmの地とは思えないほど、時の流れがゆっくりと刻まれている。説明板から200mほど離れた地には、泉福寺という寺院があり、鎌倉時代造立の阿弥陀如来坐像が収蔵されているという。国指定の重要文化財(旧国宝)で、建長6年(1254)の修理銘が残っていたという。

その修理銘には、〈源氏にかかわりの深い女性とその子孫が現世安穏と後生浄土を願い、あわせて父母の霊を祈ったものである〉という意味のことが記されていたという。

もしや、比企尼とその縁者のことかと思わせる内容で、その仏像にお参りしたかったが、通常拝観はしてないようで、事前に町に申請し、許可を受ける必要があるという(※2)。

そうした扱いをしているところはよくあるので、これはこれでいいのだが、困ったのは、前出の三門館跡。ホームページもゆかりの地として紹介され、現地に案内板も設置されているのに、今も残る土塁や堀跡に行くルートは〈私有地なので立ち入りはご遠慮ください〉とある。ここまで来て、土塁と堀跡を見られないのは残念だがしょうがない。比企一族が北条氏から受けた仕打ちを思えば、これしきのことで地団太踏むわけにはいかない。

気を取り直して、取材班は、武蔵国をさらに北上し、畠山重忠ゆかりの地に向かうことにした。

※1: 御家人・毛呂季綱、御所五郎丸の館跡とする説もある。
※2:泉福寺「阿弥陀如来像(国重文)」を拝観するには、滑川町エコミュージアムセンターの文化財保護担当に要事前申請。申請書の提出が必要。なお、三門館跡に関しては、ホームページにも「個人宅で私有地のため立ち入りはご遠慮ください」の記載がある。

(次回に続きます)

三門館跡の案内板はあるが……。

構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり

 

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