三代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された後、後鳥羽上皇の皇子を後継将軍として迎えるべく画策していた幕府に、後鳥羽上皇から「交換条件」のような要求がもたらされた。
『吾妻鏡』によれば、後鳥羽上皇の使者は院近臣の藤原忠綱。まず、北条政子を訪ねて、実朝の死を上皇が深く嘆き悲しんでいることを伝えたという。そして、北条義時に謁見した際、問題の要請が発せられたという。
いったい後鳥羽上皇の使者藤原忠綱は、幕府にどのような要請をしたのか。当欄を担当しているスタッフがかつて編集した『ビジュアル版逆説の日本史 中世編』(小学館刊)所収のショートコラム『後鳥羽上皇の最期を看取った愛妾・亀菊と承久の乱』がわかりやすいので、そのまま引用したい。
一二一九年(承久元年)三月、暗殺された源実朝の弔問使節が朝廷から鎌倉に派遣された。その際、使節の口から、執権・北条義時に対して意外な申し入れがなされた。摂津国長江・倉橋の二荘園の地頭を罷免せよ、というのである。この二つの荘園は後鳥羽上皇の愛妾・亀菊に与えられていたが、聞けば地頭は亀菊の意向に従わず、これをないがしろにするのだという。
亀菊こと伊賀局は元白拍子で、後鳥羽上皇に見初められてその寵愛を受けるようになった女官である。いかに上皇の愛妾の求めとはいえ、地頭の罷免要求を幕府が飲めるはずもない。義時は弟時房を京に遣わし、「地頭職は頼朝が戦功の恩賞として御家人に与えたもの。理由もなく解任はできない」と断っている。
幕府は次期将軍に皇族の下向を求めていたが、この一件もあって後鳥羽が拒絶。関白九条道家の三男頼経が四代将軍として鎌倉に迎えられることになった。亀菊をめぐる幕府との軋轢が承久の乱の一因といわれるほど、深刻な問題だったのだ。
亀菊は隠岐に流された後鳥羽に付き従い、その最期を看取った後に出家したと伝えられている。
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