出家を遂げた政子は、将軍の後家で将軍の母という立場から、幕府の政治にも関与していました。頼朝の権威を継承した政子は、誰よりも源氏将軍の恩を説くことができる人物だったのです。御家人たちの精神的支柱であった政子の演説によって、鎌倉方は内部分裂することなく、一枚岩となって京方と対峙することができたのでした。
北条政子の演説、その後
政子の演説を経て結束を固めた幕府軍は、東海道・東山道・北陸道の三道から京へと攻め上りました。そして、尾張河(おわりがわ)沿岸で防戦する上皇軍を打ち破ります。上皇はみずから武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めますが、失敗。上皇側の最後の防戦も破った幕府軍は、6月14日には京都に攻め入ります。こうして後鳥羽上皇の挙兵約1か月後、乱は幕府方の勝利で終わったのでした。
乱後、政子は仏事供養や一家内の仕事を中心としながらも、弟・義時を全面的に支援して乱の終戦処理にあたりました。乱に対する幕府の処置は厳しいものでした。上皇方に加わった御家人や乱を首謀した上皇の近臣を斬罪。また、後鳥羽・順徳・土御門上皇を、隠岐・佐渡・土佐に配流します。京都には、治安維持と西国御家人の統率のために、六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれました。
その後、元仁元年(1224)に執権・義時が没すると、その子・泰時が執権に就任。すると、泰時の継母・伊賀氏が自らの子の政村(まさむら)を執権、女婿の一条実雅(さねまさ)を将軍にしようとします(=「伊賀氏の乱」)。政子はこの陰謀を抑えて泰時を救い、執権政治を安泰ならしめたのでした。
まとめ
「承久の乱」に際し、御家人たちに幕府の恩を説いて、奮起を促した「北条政子の演説」。この演説が多くの御家人らを都に攻め上らせ、幕府は勝利を収めたとされます。政治家であり、妻であり、将軍家の家長であった政子の言葉には、人の胸を打つのに十分な重みがあったといえるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)