はじめに-藤原秀康とはどんな人物だったのか

藤原秀康(ひでやす)は、鎌倉初期の武士です。後鳥羽上皇の近臣で、西面(さいめん)の武士などを務めました。朝廷による倒幕の戦いである「承久の乱」では、上皇側の総大将として軍を率いて戦います。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽院に仕える京武者(演:星智也)として描かれます。

目次
はじめに-藤原秀康とはどんな人物だったのか
藤原秀康が生きた時代
藤原秀康の足跡と主な出来事
まとめ

藤原秀康が生きた時代

鎌倉初期は、武家政権である鎌倉幕府と朝廷とが共存する時代でした。しかし、次第に両者の円滑な関係は崩れていきます。その頃、朝廷の頂点として長きにわたって院政を執っていたのが、後鳥羽上皇です。その後鳥羽院に仕える武士であった秀康は、倒幕へと深く関わっていくのでした。

藤原秀康の足跡と主な出来事

藤原秀康は、生年は不詳で、承久3年(1221)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

後鳥羽上皇に仕える

藤原秀康は、河内守・藤原秀宗(ひでむね)の長子として生まれました。母は伊賀守・源光基(みつもと)の娘とされます。若い頃から、武士として朝廷に仕えました。

秀康は、私財を投じて、紫宸殿(ししんでん)をはじめとする諸々の殿舎(でんしゃ)を造営したり、検非違使(けびいし)として治安維持に活躍したりと、功を重ねたことで、後鳥羽上皇の信任を得ました。そして後鳥羽院の御厩(うまや)奉行や、院の警備に当たる西面(北面ともいう)の武士に任ぜられます。

また、備中、備後、美作(みまさか)、越後、若狭、淡路、伊賀、河内、能登など、諸国の国守を歴任しました。こうしたことから、秀康が後鳥羽院の寵臣であったことがうかがえます。

倒幕の基盤を固める

承久3年(1221)の「承久の乱」に際し、在京中の御家人・三浦胤義(たねよし)を討幕計画の仲間に勧誘します。胤義はもともと兄・義村とともに北条氏に仕えていましたが、怨みを抱き、京都へ移ったとされる人物です。

彼が秀康の誘いに乗ったのは以下のような理由が推察されます。『承久記』によれば、胤義の妻は2代将軍・頼家の愛妾であり、彼とその子・若君を北条義時に殺されました。そんな妻を哀れに思い、鎌倉への謀反を企て、上皇側についたとするのが通説です。胤義を引き入れると、胤義の兄・三浦義村(よしむら)と連携して執権・北条義時を討つ計画を立てます。こうして、秀康は上皇が反乱の実行を決断する基盤をつくったのでした。

承久の乱にて上皇側の総大将となる

実際に「承久の乱」が起こると、秀康は上皇側の総大将に任ぜられ、弟・秀澄(ひでずみ)とともに院方の軍勢を率いて戦いました。そして胤義は、院宣に従い畿内の兵を集めると、京都守護・伊賀光季(みつすえ)を急襲。京方大将軍として総指揮にあたり、後鳥羽上皇から賞詞を賜わったとされます。彼らは、三浦義村に院宣と書状を送って、義時追討を促そうとしました。しかし、義村はこれに応ぜず、幕府を支持。逆に、幕軍を西上させたのでした。

鎌倉から京に向かう幕府の軍勢を食い止めるべく、秀康は美濃国の摩免戸(まめど=現在の岐阜県各務原市)に出陣。敗れて帰京するも、再び二千余騎を率いて、食渡(じきのわたし=現在の岐阜県羽島郡岐南町)に出陣します。しかし再度、上皇側は敗北を喫しました。軍記類による限りでは、秀康は軍事的な才能は乏しかったとされます。こうして防戦に失敗した秀康らは、警固の地を棄てて帰京したのでした。

敗戦のすえ、死亡

上皇軍の敗戦の後、上皇はみずから武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めましたが失敗。最後の一戦を試みるも破れ、6月15日に京都は幕府軍の占領するところとなったのでした。挙兵以来わずか1か月で、乱は幕切れを迎えたのです。

敗戦が決定した日、上皇は義時追討の宣旨・院宣を取り消し、乱の責任は謀臣にあって自分にない旨を泰時に申し入れたとされます。秀康、胤義率いる京方の武士はこうして上皇に見捨てられたのです。彼らは東寺に立て篭もって抵抗しました。

三浦義村の軍勢がこれを攻めると、秀康は本拠の河内国へ逃れました。そして同年10月、河内国の讃良(さんら=現在の大阪府寝屋川市)で捕らえられ、京都・六波羅(ろくはら)に送られます。その後の10月14日、「承久の乱」の首謀者として斬殺されたのでした(一説に自害)。

そして胤義は、東寺に立てこもり、ここで兄・義村と対面したとされます。その後、太秦(うずまさ)の西山木島(このしま)社(=現在の京都市右京区太秦森ヶ東町)に子供とともに身を隠していました。しかし6月15日、進退きわまり自殺を選んだのでした。

もう一人の弟・秀能

秀康には、ともに捕まり死罪とされた秀澄の他に、もう一人の弟がいます。それが、藤原秀能(ひでとう、またはひでよし)です。彼も秀康同様、後鳥羽上皇の西面(北面)の武士でした。加えて、歌人としても活躍し、18歳ごろから後鳥羽院の近従として歌壇に参加。上皇にその才能を見出され、『新古今集』を編集する和歌所寄人(よりゅうど)にも選出されました。

歌人として優れた秀能は『新古今集』以下の勅撰集に78首もが入り、『如願(にょがん)法師集』と題した家集も記したのでした。また、数々の歌合(うたあわせ=短歌を左右1首ずつ組み合わせ、優劣を争う文学的行事)にも出席した記録が残されています。

軍人としては、検非違使兼出羽守となります。「承久の乱」の際には大将となりましたが、敗れると熊野で出家。これにより反乱の罪を許されました。

出家後の嘉禎2年(1236)には、隠岐に配流された後鳥羽上皇が催した「遠島(えんとう)御歌合」にも歌を寄せており、後鳥羽法皇を慕っていたことがうかがえます。そして、兄・秀康の死後から約20年後の延応2年(1240)、57歳で死去しました。

まとめ

後鳥羽上皇から厚い信任を得た武士であり「承久の乱」での総大将となった藤原秀康。幕府と朝廷の体制が崩れた「承久の乱」は、歴史の転換点のひとつといえるでしょう。その一端を担った人物である秀康の生涯もまた、力強いドラマを感じさせてくれます。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本人名大辞典』(講談社)

 

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