横浜市旭区にある畠山重忠の首塚。

『鎌倉殿の13人』で北条氏によって理不尽な謀反の嫌疑をかけられた畠山重忠(演・中川大志)を偲んで、その居館跡「菅谷館(すがややかた)」を訪ねた。(https://serai.jp/hobby/1090692

菅谷館跡で、今も視線を鎌倉に向ける昭和4年造の重忠像と対面し、隣接する「埼玉県立 嵐山史跡の博物館」で重忠の生涯に思いを馳せた時、このまま重忠最期の地である二俣川を無性に訪ねたくなる衝動に駆られた。

畠山重忠の居館跡「菅谷館」周辺は、往時、鎌倉街道上道が通る交通の要衝。本来、かつての鎌倉街道に沿って、二俣川に向かうべきなのだが、今回は、電車で武蔵(埼玉県)から相模(神奈川県)まで移動した。菅谷館の最寄り駅である東武東上線武蔵嵐山駅から相模鉄道鶴ヶ峰駅へは、時間帯によっては、池袋駅で相鉄線直通の埼京線に乗り換えて、1回の乗り換えで行くことができる。

移動の車中では、重忠のことだけを考えた。

『鎌倉殿の13人』では、触れられてはいないが、実は、畠山重忠に謀反の嫌疑がかかったのは、初めてではなかった。「最初の嫌疑」のことを調べると、重忠にとって、重要な事件だったような気がしてきた。

発端は、文治3年(1187)9月27日。『吾妻鏡』には、〈畠山二郎重忠 囚人と爲し 千葉新介胤正に召預け被る〉と記される。重忠に恩賞として与えられていた領地(伊勢国沼田御厨)の代官が不正を働いていたことが発覚、重忠が囚人として、千葉胤正に預けられたという。

重忠を預かった千葉胤正は、『鎌倉殿の13人』に登場した千葉常胤(演・岡本信人)の嫡男。母方が重忠と同じ秩父一族という縁があった。

このとき、謀反の嫌疑をかけられた重忠はどういう行動に出たか?

千葉胤正に囚人として預けられてから、〈已に七ケ日を過ぎる也。此の間、寢食共に絶ち畢。 ついに又言語を発するもなし〉(『吾妻鏡』)。と、言葉を一切発することなく、食事も睡眠もとらずに過ごすという現代でいうハンガーストライキ以上の手段をとった。

見かねた胤正がせめて食事だけでもと勧めても拒否。重忠はもう覚悟を決めていると考えた胤正は、慌てて重忠の現状を頼朝に報告。「重忠の覚悟」を重く受け止めた頼朝は、重忠を赦免したのだという。

武蔵国へ派遣された「重忠朋友」の御家人

ところが、これにて一件落着とはならないのが魑魅魍魎の鎌倉。今度は、梶原景時が重忠に謀反の兆しがあるとの風聞を流す。『吾妻鏡』は〈梶原平三景時 内々に申していわく〉と景時が流した噂についてこう説明している。

「重忠は、囚人として預けられるほどの重罪だったのか? これでは、これまでの功績がすべて台無しになったかのようだ、と館にこもって謀反を企んでいる」と頼朝に讒言した。

頼朝も動いた。小山朝政、下河辺行平、小山(結城)朝光、三浦義澄、和田義盛を招集し、「重忠に使者を出すべきか」、それとも「いきなり重忠討伐軍を派遣するか」問うた。

頼朝に対して答えたのは小山朝光。〈重忠は天性廉直をうけ、もっとも道理をわきまう。敢て 謀計を存ぜざる者也(略)謀叛の條、定めて僻事たらんか〉、重忠は天性、心がまっすぐで道理を弁えた人間。謀り事など考える人ではない。謀反の話はでたらめでしょうと重忠を擁護。結果、使者が派遣されることになった。

重忠のもとに使者として派遣されたのが下河辺行平。朝光と同族の弓の名手。頼朝の信頼厚い人物で、何より重忠とは入魂の間柄だった。下河辺行平が鎌倉を発ったのが文治3年11月16日。17日には武蔵国菅谷館に到着し、重忠と談判した。

行平から、景時の讒言によって、謀反の疑いがかけられていることを聞いた重忠は激高し、「讒言する者の意見を信じ、自分が鎌倉に行ったらだまし討ちをするのであろう。そもそもこのような因縁をかけられる事さえ恥辱である」と、行平の目の前で自害をしようとする。

それを引き留めた行平は、「貴殿は平良文将軍の子孫、自分は鎮守府将軍藤原秀郷の子孫。そのふたりが戦えば面白いかもしれない。だが、なぜ、頼朝様が重忠と朋友である自分を使者として派遣したのか? 頼朝様は重忠が鎌倉に来てくれるであろうと思っているのでしょう」と熱く語りかけた。行平の言葉を聞いた重忠は得心し、行平と酒を酌み交わしたという。

やましいことがなければ、正々堂々と

下河辺行平とともに鎌倉に下った重忠に対して、梶原景時は、起請文を書くように迫った。重忠はこれに対してもまっすぐに対処。最終的に頼朝によって重忠の嫌疑は不問とされたのである。

重忠にとって、最初に謀反の嫌疑をかけられた際の顛末が記憶に残っていただろう。やましきことがなければ、堂々としていれば良い。そう思っていたかもしれない。

だが、文治3年の際の「謀反騒動」の際には、菅谷館までやってきた下河辺行平のような御家人が、二度目の嫌疑では現れない(劇中では、義時が武蔵国に赴き、二俣川には和田義盛が訪ねている)。それだけではない。二俣川まで進んで来た重忠に、すでに息子重保が討たれてしまったことが告げられる。

しかも攻め手の軍には朋友下河辺行平の姿も見える。

事ここに及んで、重忠の胸中に「今の鎌倉はもはや以前の鎌倉ではない」との思いがよぎったに違いない。

大都市横浜の一角で大切に護られる重忠の史跡。次ページに続きます

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