『鎌倉殿の13人』で迫田孝也が演じた源範頼。建久4年(1193)の富士の巻狩りの際に発生した「曽我兄弟」の仇討事件の余波で誅殺されたが、実は子供たちは助命され、吉見氏を称して、その後も生きながらえた。
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名作大河ドラマの呼び声が高い平成3年(1991)の『太平記』第一回では、台詞の中で 源範頼の子孫について触れられた。
北条に謀反を起こしたという吉見一族の残党・塩屋宗春らが下野の足利貞氏(演・緒形拳)の屋敷に庇護を求めて来た場面だ。足利貞氏を囲んだ足利家執事の高師重(演・辻萬長)と師行(演・左右田一平)兄弟がこんなやり取りを交わした。
〈吉見の一族? 北条に謀反を起こした〉
〈吉見は源範頼公を祖と仰ぐ源氏。当家を源氏の棟梁と見込んで頼って参ったのであろう〉
大河ドラマ『太平記』では嘉元2年(1305)、主人公の足利尊氏が誕生した年の設定になっていたこの事件。源範頼が誅殺されてから112年経過したこの時点で、源範頼の子孫が生き残っていたのだろうか。
その歴史を振り返るため、東京・池袋駅から東武東上線急行で約1時間、東松山駅で下車して、埼玉県比企郡吉見町に向かった。
吉見町大字御所。悠久の歴史を感じさせる地名に息障院(そくしょういん)という真言宗智山派の寺院がある。門前には「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ゆかりの地」「比企一族と武蔵武士」の幟がはためいている。地元の伝承では、この地が源範頼の館跡で、現在も残る「御所」の地名は、範頼の「御所」があったことに由来するという。
範頼遺児が頼朝ゆかりの寺院に入室
範頼の妻は、比企尼の孫娘(比企尼長女と安達盛長の間に誕生)。建久4年に範頼が誅殺された際に、範円、源昭のふたりの息子がいたが、息子たちは比企郡の慈光寺に入室したといわれる。
実は慈光寺は、鎌倉殿・源頼朝ゆかりの寺院だ。『吾妻鏡』文治五年六月二十九日条に、奥州合戦出兵を控えた頼朝が同寺に愛染明王像を寄進したことが記されている。同記事には頼朝挙兵前の治承3年(1179)にわざわざ伊豆から安達盛長を遣わして、梵鐘を寄進したことも記されている。それほど頼朝の帰依が篤かった寺院ということだ。
比企尼、安達盛長らの助命嘆願があったとはいえ、範頼遺児が殺されることなく、頼朝ゆかりの寺院に入室したことは特筆されるべきことだろう。頼朝にも範頼に対する贖罪の念があったのかもしれない。
さて範頼の流れが吉見氏を称するようになったのは、範円の息子為頼の代。以降、代々「吉見御所」として領内の畏敬を集めたという。息障院の境内周辺に今も残る堀跡は、範頼が館を構えていた時代からのものだと伝わる。ちなみに現在も「比企郡」となっている吉見の地は比企尼の所領で、範頼子孫の吉見御所は、比企尼から譲られたといわれる。
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