崇徳上皇と後白河天皇という兄弟間で争われた保元の乱(1156)に際して、源氏は分裂し敵味方に別れた。
崇徳上皇側に棟梁の源為義とその息子たち(頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲)がつき、一方の後白河天皇側には為義の長子義朝がついた。
合戦は、後白河天皇側が勝利したが、戦後処理が苛烈を極めた。まず、源氏同様、敵味方に別れた平氏。平清盛が叔父忠正を斬首する。そして、源氏も義朝の手により、為義と5人の弟が斬首される。
平安時代は、長らく公式には死刑がなかったといわれている。だが、朝廷の皇位をめぐる争いに源氏と平氏という武家勢力が加担することで、果てしない戦乱の時代が到来することになる。天台座主・慈円が著した『愚管抄』では「ムサの世(武者の世)」という表現で時代の潮流変化を印象付けている――。
『保元物語』によれば、敗れた源為義は、長子義朝が、自らの勲功と引き換えに実父と弟たちの命を救ってくれると期待していたようだ。そのため、八男為朝が東国へ落ち延びようと進言しても、それを聞かずに投降したのが裏目に出た。合戦直後の興奮状態の中、義朝には実父為義と弟たちを斬首するように命じられたのだ。
実父と実弟を処刑せざるを得なかった「血塗られた源氏の宿痾(しゅくあ)」。その歴史を振り返ると、保元の乱から47年さかのぼっても、「流血」が確認される。
棟梁源義忠暗殺事件と冤罪で滅ぼされた賀茂次郎一族
前九年の役(1051~1062)、後三年の役(1083~1087)を通じて、源氏の名声を一躍伸長させた源義家が、嘉承元年(1106)に亡くなると、源氏の棟梁の座を継いだのは義家三男の義忠(四男とも)。その義忠が、天仁2年(1109)何者かによって京都で暗殺された。
下手人と疑われたのは、八幡太郎義家の弟義綱(賀茂次郎)の息子義明。義綱一族には追手が差し向けられ、義綱の息子たち(義弘、義俊、義明、義仲、義範、義公)はことごとく落命、父の義綱は捕縛され佐渡に流される(20年後に追手を送られ自害)。
源義忠暗殺事件で族滅に追い込まれた賀茂次郎義綱一族だが、その後冤罪だったことが判明する。真犯人はなんと新羅三郎義光。八幡太郎義家と賀茂次郎義綱の弟で、後三年の役では、苦境に立たされた兄義家を救援すべく、官位を投げうってまで奥州に出陣した美談の主である。
義光は、義綱一族の追討使に任じられた源為義を何食わぬ顔で後方から支援していたというから、あるいは当初から仕組まれた事件だったのかもしれない。
そして、義光の流れは常陸佐竹氏、甲斐武田氏に続くが、頼朝世代でも激しくせめぎ合うことになる。
義朝長男義平に殺害された源義賢(義仲の父)
保元の乱の前年、久寿2年(1155)。坂東では、源為義次男義賢が、源義朝の長子義平によって討たれるという事件が勃発する。義賢は、兄義朝を差し置いて、源為義の嫡男だったという説もある源氏の有力者。坂東での覇権を義朝と争っていたともいわれ、その存在を煙たがった義平の先制攻撃に斃れてしまう。
この時、2歳だった義賢の嫡子は木曽谷で育てられ、後年木曽義仲として平家を都落ちに追い込む。だが、その義仲も、父義賢を討った義平の弟にあたる頼朝らによって討たれてしまう。父子ともども血縁の近い同族に誅される悲運に言葉もない。
頼朝孫世代まで続いた「源氏の宿命」
源氏の棟梁源義忠暗殺の真犯人・新羅三郎義光の流れは、常陸の佐竹、甲斐の武田に分流する。いずれも源頼朝の挙兵後、すぐには臣従してこなかった一族だ。
頼朝は、祖父為義の叔父にあたる義忠暗殺をめぐる新羅三郎義光の動向を把握していたのだろうか。もし知っていたのであれば、その流れを汲む常陸源氏佐竹氏、甲斐源氏武田氏などをどのように見ていたのだろうか。「決して信用してはいけない一族」という視点があったとしても不思議ではない。
『鎌倉殿の13人』では八嶋智人が演じた甲斐源氏武田信義は、頼朝に伍して競おうとしていたが、支持は得られなかったようだ。そればかりか、叔父の安田義定、兄の一条忠頼、息子の有義や板垣兼信などが粛清・追放され、信義自身も失意のうちに亡くなっている。
頼朝と甲斐源氏の暗闘は、頼朝の圧勝だった。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、頼朝挙兵に集った範頼、義円、全成、義経の兄弟たちがそれぞれ非業の死を遂げた様が描かれた。「血塗られた一族源氏」もここまできたら「呪われた一族」と言っても言い過ぎではないほど血が流された。
しかし――。悲劇は頼朝世代だけでは終わらなかった。
現在『鎌倉殿の13人』では、頼朝嫡男頼家が北条家に追い詰められる場面が描かれているが、「血塗られた一族源氏」の宿痾は、頼朝の子世代を飛び越え、孫の世代まで、延々と続くことになる。
『鎌倉殿の13人』で、その歴史がどのように描かれるのか。興味は尽きない。
構成/一乗谷かおり