北条義時(演・小栗旬)を主人公とする2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。武家政権の基礎を固めた義時だが、その人生は周囲の魅力的な女性たちが彩った。北条義時研究で注目される新進気鋭の研究者の目を通じて、時代の潮流変化を生き抜いた人々の人間模様を活写する。
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義時(演・小栗旬)の6歳年長の姉、北条政子(保元2年/1157~嘉禄元年/1225)。
皆さんは、北条政子に対し、どのような印象を持つだろうか?
『鎌倉殿の13人』では小池栄子さんが演じる政子は、女性としては数少ない政治家として歴史に名を残した人物だが、その評価は昔から決して良いものばかりではなかった。
気が強い、嫉妬深い、冷酷など、マイナスの評価によって語られることも多く、「悪女」のイメージを抱いている読者もいるかもしれない。しかし、これらの評価は誤り、あるいは彼女の一面的評価でしかない。
中世の史料を通して浮かび上がるのは、主体的で、慈悲深く、周囲に気を配る政子の姿だ。今回は、頼朝との出会いから死がふたりを分かつまでを取り上げる。
頼朝と政子「恋の逃避行」
1157年、政子は伊豆国田方郡北条(今の静岡県伊豆の国市)に生まれた。のちに夫となる源頼朝(演・大泉洋)と出会ったのも、この北条の地である。
ふたりは、父時政(演・坂東彌十郎)が京都にいる間に恋仲となったが、流人源頼朝と娘の関係に驚き、平家の威勢を恐れた時政は、ふたりの仲を引き裂くため、同じ伊豆の豪族山木兼隆との縁談を進め、政子を山木邸に送り込んだ。しかし、政子は嫁ぎ先を脱出し、頼朝と伊豆山で落ち合う。伊豆山権現は僧兵を抱えるアジール(聖域)であったことから、時政も手を出せず、ふたりの仲を黙認せざるを得なかったという。
この「恋の逃避行」の話は、伝承の域を出ないが、政子が頼朝と結ばれたことは確かである。親権が絶対である中世において、政子は頼朝を選び、自らの人生を切り開いたのだ。そして、この彼女の行動が、義時を歴史の表舞台へと誘うことになる。
不遇な女性たちへの援助
北条氏は、20年の流人生活の末、ついに兵を挙げ、鎌倉に武家政権という新しい政治権力を創出した源頼朝を支えた。政子は、頼朝と共に鶴岡八幡宮などの寺社に参詣するなど、御台所としての役割を果たしているが、特に注目すべきは、頼朝と意見が食い違おうとも、親族の不遇な女性たちへの援助を怠らなかったことである。
有名なのは、義経(演・菅田将暉)の愛妾静が義経を慕う舞を舞った際に、頼朝の怒りをなだめたという話だろう。静とその母親が京都に帰る際には、多くの宝物を持たせている。木曽義仲の妹宮菊を鎌倉に呼び寄せ、美濃国の一村を与えたこともあった。
また、長男頼家(演・金子大地)の死後、その娘竹御所を実朝御台所(坊門家の娘)の養子としたり、二男実朝の暗殺後、京都に戻り、亡き夫の菩提を弔い続けた御台所に所領を与え、経済的に支援したりした。その他、親族の娘たちの縁組にも積極的に関わっている。
このような不遇な女性たちへの援助は、政子の生涯にわたって行われた。養子・縁組の斡旋に明らかなように、源氏将軍家の中心にあって、人と人とをつなぐ役割を果たしていたといえる。これは将軍御台所として社会的に求められた役割であったが、その背後には政子個人の弱者への配慮を看取することができよう。
晩年に、独り残された政子
政子は頼朝との間に二男二女を儲けたが、娘たちは若くして病死し、息子たちも政争の中で命を奪われた。とくに夫頼朝と二女の三幡は同年に相次いで亡くなっており、その悲しみは計り知れない。京都神護寺に伝わる書状には「母が嘆きは浅からぬことに候」とみえ、母の悲痛な思いがつづられている。
夫にも、子どもにも先立たれた政子。ここから彼女は本格的に政治に関与し、尼将軍として歴史に名を残すことになる(以下つづく)。
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山本みなみ/1989年、岡山県生まれ。中世の政治史・女性史、とくに鎌倉幕府や北条氏を専門とし、北条義時にもっとも肉薄していると学界で話題を集める新進気鋭の研究者。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位を取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。『史伝 北条義時』刊行。