初代連署を務める
元仁元年(1224)6月、執権・義時が没すると次の執権職にはその子・泰時が就きます。翌年に政子も死去すると、泰時は「連署」を新設し、時房をこれに任じたのでした。
「連署」とは、執権を助けて政務を行い、執権とともに幕府発給の文書に署判する職とされます。元来は文書に“連”名で“署”判することをいいますが、執権とともに幕府発給の文書に署判する職を「連署」と呼ぶようになりました。ただ、執権と連署の権限は同等ではなく、連署はあくまでも執権の補佐役だとされます。
『吾妻鏡』には執権・北条義時の没後、北条政子が北条泰時・時房に「軍営御後見」を命じたとあり、従来は、これが泰時・時房の執権・連署就任、連署の初設を意味する記事とされてきました。しかし、現在では翌嘉禄元年(1225)政子の没後、執権・泰時が時房を任じたのが連署の始まりであるとする説が定着しています。
執権・泰時の協力者としての姿
時房は、初代連署として執権・泰時の良き協力者として幕政を指導したのでした。二人の仲を示す一つの逸話があります。延応元年(1239)4月、泰時が重病のとき、時房は平然として酒宴を続けたため非難を受けました。すると「自分が安心して酒宴できるのも泰時のおかげである。もし泰時が死んだら私も遁世するから、これが最後の宴となるだろう」と語ったといいます。終世変わらず、泰時の忠実な協力者であったことがうかがえる逸話です。
仁治元年(1240)1月24日、66歳で死去。時房は深沢の里に住み、近くにある大仏(おさらぎ)の字を苗字とし、「大仏殿」と呼ばれました。子孫である大仏氏からは、執権・連署が輩出され、北条氏の一族として幕府政治の枢要を担ったのでした。
まとめ
六波羅探題や連署を務め、鎌倉幕府および北条家を陰から支えた「北条時連(時房)」。一回り歳の離れた兄弟である義時や政子にまで信頼されていたことが、その政治的経歴からうかがえます。確かな実力を持って、鎌倉幕府の北条政権を支えた立役者の一人と言えるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)