この戦いの戦況と結果

元久2年(1205)、平賀朝雅は北条時政の継室で、政範の母である牧の方に争いの件を訴えました。畠山親子に謀反の疑いあり、と聞いた時政は、畠山重忠討伐を決意します。ただ、子の義時と時房に討伐の相談をすると、彼らは強く反対の意を表したとされています。しかし、牧の方の強い押しによりその命に従わざるを得なくなりました。

同年6月22日早朝、謀反人討伐の命が下り、鎌倉の御家人らは、軍兵を率いて由比ヶ浜に向かいます。重忠の子・重保も郎従3名とともに由比ケ浜に駆け付けますが、時政の意を受けた三浦義村(よしむら)らの兵に取り囲まれ、あえなく討たれました。

重保の父・重忠はそのことを知る由もなく135騎を連れて由比ケ浜へ向かっていました。また、自分に謀反の疑いがかけられていることも知りません。鎌倉方の大軍と対峙したのは、二俣川(=現在の神奈川県横浜市)とされています。重忠はここで初めて自分に謀反の疑いがかけられ、子・重保が討ち取られていることを知ります。

畠山軍は少数であったため、鎌倉方の軍から、一度退いて合戦の準備をするようにすすめられるも、武士らしく潔く戦うべきと決し、戦いを始めました。わずか百数十騎をもって幕府の大軍と激戦を繰り広げた重忠でしたが、矢を受けて倒れ、ついに首を討ちとられたのでした。『愚管抄』では自害と記され、『吾妻鏡』と少し異なる最期となっています。

畠山重忠の乱、その後

翌日、鎌倉へ戻った義時は「謀反が虚言であり、気の毒で涙が止まらない」と時政に訴えたとされています。牧の方の押しにより討伐軍を編成した北条時政も、重忠に謀反の意思などなかったことを悟ったのでした。

こうして、畠山重忠と北条時政・平賀朝雅の対立は、北条時政・平賀朝雅の勝利に終わりました。邪魔者を始末した時政と牧の方は、平賀朝雅を新将軍として擁立するため、実朝を廃そうと動きます。この策を知った北条義時と政子は黙っておらず、時政邸から実朝を連れ出し保護。そして、北条時政と牧の方を追放し、平賀朝雅を誅殺したのでした。

「畠山重忠の乱」をきっかけに、幕府内の権力は北条時政から、北条義時・政子へと移っていったのです。

まとめ

幕府の実権を独占しようとする北条氏によって、畠山重忠があらぬ疑いをかけられ誅された「畠山重忠の乱」。潔く死の決戦に臨むことで、自らの無実を証明した重忠の悲劇的な最期は、後世の人々によって語り継がれていきました。「武士としての死に様」を示したその最期は、彼が「鎌倉武士の鑑」と称されるゆえんとも言えるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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