はじめに-畠山重忠の乱とはどんな戦いだったのか
「畠山重忠の乱」は、武蔵国の有力御家人・畠山重忠(しげただ)が北条時政の策謀により、大軍に攻められ、滅ぼされた事件です。重忠は、源義経とともに源平合戦で活躍し「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた人物でした。では、「畠山重忠の乱」はどのように起こったのでしょうか。
目次
はじめに-畠山重忠の乱とはどんな戦いだったのか
畠山重忠の乱はなぜ起こったのか?
関わった武将たち
この戦いの戦況と結果
畠山重忠の乱、その後
まとめ
畠山重忠の乱はなぜ起こったのか?
畠山重忠は、武蔵国・男衾(おぶすま)郡(=現在の埼玉県大里郡川本町)を本拠とする武士です。「石橋山の戦い」では頼朝に敵対していましたが、やがて帰服し、多くの戦いに参加しました。木曾義仲の追討、平家の追討に従軍し、「宇治川の合戦」や「一ノ谷の戦い」で活躍。奥州藤原氏征伐の際にも、大手の先陣を務め、藤原国衡(くにほら)の首級を獲るなどの活躍をみせました。
このように、重忠は草創期の鎌倉幕府の有力御家人として多くの功績を残し、将軍・頼朝をはじめとする御家人たちの信頼も得ていました。
正治元年(1199)に頼朝が亡くなると、幕府の宿老による「十三名の合議制」が発足します。すると、有力御家人による権力闘争が繰り広げられていったのでした。正治2年(1200)には源頼朝の信頼が厚かった武将・梶原景時が失脚。景時の讒言が他の御家人の反感を買い、有力御家人66人による弾劾状が作られ、鎌倉を追放される「梶原景時の変」が起こりました。この66人の署名の中に畠山重忠の名もあったとされています。
また、建仁3年(1203)には「比企能員(ひきよしかず)の乱」が起こりました。これは、比企能員が北条時政に誘殺され、比企一族と源頼家の子・一幡(いちまん)が滅ぼされた事件です。第2代将軍・源頼家の後継者争いから勃発したこの事件は、頼家の追放、源実朝(さねとも)の第3代将軍就任によって、幕を下ろしました。
元久元年(1204)、新たに将軍となった実朝は、京都から坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘・信子(のぶこ)を夫人として迎えることとなります。彼女を迎える使者として、畠山重忠の子・重保(しげやす)や、北条時政の子・北条政範(まさのり)が京都に上りました。ところが旅の途中、政範が病にかかり、急死。
その後、京都守護・平賀朝雅(ともまさ)の家で酒宴が開かれましたが、朝雅と畠山重保が口論となります。争いそのものはその場で収まり、大事には至らなかったものの、この出来事が翌年の「畠山重忠の乱」に結びついていったのでした。
関わった武将たち
畠山重忠の乱に関わった、主な武将をご紹介しましょう。
畠山氏
・畠山重忠
源頼朝に仕え、源平合戦で活躍した武士。謀反の疑いをかけられ、討たれる。
・畠山重保
畠山重忠の子。時政の後妻の娘婿・平賀朝雅と酒宴の席で口論。これを口実に時政ら北条軍に攻められ、鎌倉・由比ケ浜で殺された。
北条氏
・北条時政
鎌倉幕府の初代執権。娘が畠山重忠の妻であるため、畠山重忠の義父にあたる人物。謀反の疑いがあるとして、重忠討伐を命じる。
・平賀朝雅
執権・北条時政の後妻である牧の方(まきのかた)の娘婿となった武将。重保との口論から、乱のきっかけを生み出す。
・牧の方
北条時政の後妻として迎えられ、寵愛を受けた。自分の子である政範の死から、畠山親子の謀反を讒言した人物。
・北条義時
時政の子であり、鎌倉時代前期の第二代執権。二俣川にて、畠山重忠軍を破った。
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