対・朝廷政策
当時朝廷では藤原頼経の父・道家(みちいえ)や、外祖父・西園寺公経(さいおんじきんつね)が実権を握っており、公武関係はおおむね円満でした。しかし、道家らが承久の乱で流された後鳥羽・順徳両上皇の還京を図った際には、泰時はこれを強く拒否します。
仁治3年(1242)四条天皇が急死した際、皇嗣の候補者として順徳上皇の皇子と土御門(つちみかど)上皇の皇子が擬せられ、公卿の間では前者の方が有力でした。しかし、順徳上皇が承久の乱の際に討幕に積極的であったことを嫌った泰時は、皇位問題に干渉し、土御門皇子(後嵯峨天皇)を推戴したのでした。この処断は、順徳の外戚であった九条家と幕府との亀裂を深めることとなります。
出家後、没する
仁治3年(1242)、病のため出家し「観阿(かんあ)」と称しましたが、その年の6月、泰時は60歳で没したのでした。泰時の政治は世の賞讃を以て迎えられ、古代中国の伝説上の聖王である“堯・舜の再来”とまで言われたとされています。反面、摂政・近衛兼経(かねつね)は泰時を極重悪人と評しており、まったく悪評がなかったわけではありません。
しかし、後世でも、南北朝時代の公卿・北畠親房(ちかふさ)から歴史家・頼山陽(らいさんよう)に至るまでが泰時を讃え、武家が皇室から政権を奪ったことを非難する中で、泰時だけを例外と見ています。彼が道理を愛する清廉な政治家として、当時より公武双方の称賛を受けていたことがうかがえます。
まとめ
後世長く“武家政治の手本”と仰がれた、北条泰時。政治へのカリスマ的な才能を有していただけではなく、人柄も優れていたと言われています。「日本史上屈指の名宰相」と呼ばれる所以が見て取れたのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)