『「武士の誕生」の真実』の第1話では、日本中世史の「武士研究」の第一人者である 関幸彦先生に、「10世紀以降の東アジア情勢の激変が日本国内にも大きな影響を与えたことが『武士誕生』の背景となったこと」、さらに、「『武士は農民のチャンピオンである。農民が成長し、有力になって、自衛しながら勢力を伸ばしていき、それが武士ないしは武士団の形成につながった』という見方が、実は間違っていること」などをご解説いただきました。
では、実際に武士はどのようにして誕生してきたのでしょうか。
ここで関幸彦先生が注目するのは、武士の前身としての「兵(つわもの)」です。
「武士(もののふ)」と「兵(つわもの)」という言葉がありますが、「武士(もののふ)」以前の武的領有者が「兵(つわもの)」と呼ばれたのです。
そもそも「つわもの」の語源は、「器者(うつわもの)」でした。つまり武器、兵器のような「器」を駆使して戦うプロフェッショナルが「うつわもの」であり、それが転化して「つわもの」と呼ばれるようになったのです。
この「つわもの」と「もののふ」では、領主としての位置づけも違いました。それが両者の性格を大きく分け、さらに名乗りかたの違いにも大きく関わっているというのですが……。
1話10分で学ぶオンライン教養動画メディア「テンミニッツTV」(イマジニア)で、日本中世史の「武士研究」の第一人者・関 幸彦先生が「武士の誕生」をわかりやすく解説する講義のなかから、今回は「武士の前身としての兵(つわもの)の実像」に迫っていただいた部分を紹介いたします。
※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp/lp/serai/)からの提供です。
関 幸彦(せき・ゆきひこ)
1952年生まれ。学習院大学大学院博士課程満期退学。鶴見大学教授などを経て、現在、日本大学文理学部史学科教授。専門分野は日本中世史。『英雄伝説の日本史』『武士の誕生』(ともに講談社学術文庫)、『鎌倉殿誕生』(山川出版社)、『その後の東国武士団』『敗者たちの中世争乱』(ともに歴史文化ライブラリー・吉川弘文館)、『刀伊の入寇』(中公新書)など著書多数。
武士の前身である「兵(つわもの)」
「武士が中世の国家の主役になる」というのは、その通りです。武士と呼ばれる存在はどちらかといえば、少し難しいのですが「制度的な身分概念」と呼んでいいと思います。
武士は一つの法制度の中で呼ばれる言い方で、全部の武的領有者がすべからく武士と呼ばれたわけではありません。また、武力を解決する存在である武的領有者が、武士という身分をいきなり獲得したわけでは当然なくて、やはりそれまでの長い前史があります。
こういう流れを考える際に、前史を知る上で武士の母体となる助走に位置付けられるのが、武士の前身である「兵(つわもの)」です。武士は一般的には「もののふ」と呼ばれていて、武士の前身になる、つまり武士以前の武的領有者のことを兵(つわもの)と呼んでいます。
兵というのは、強者と書いて「つわもの」と読むこともあります。ただし、原理的には「うつわもの」です。「うつわ」は、武器、兵器の「器」である「うつわもの」の「うつわ」です。だから兵というのは、武器や兵器を駆使するプロフェッショナルのことです。これを「うつわもの」と呼んで、その「うつわ」の言葉が転化して「つわもの」と呼ばれました。
だから兵の兵たる所以は、戦をして、戦って、そして相手を実力によって従わせていく立場にあります。そのため、兵は別に法制度的に概念規定されているわけではなくて、あくまでも実態的な言葉に由来します。漠然と、武的な領有者で強い者、あるいは武器を駆使した者を兵と呼びました。
この兵は、もちろん戦う戦士的な側面と領主的な側面の二つの側面を持っています。この二つの側面が完結、完成された形態こそが「武士」と呼ばれます。
都と地方を自由に往還するのが「兵(つわもの)」の基本
では、兵と武士は、どこがどう違うのか。いうなれば、兵は王朝国家段階に登場した武的領有者で、これの相対的な呼称が武士という言葉です。
兵の場合には、都、地方を自由に行き来するのが特徴です。地方のことを「ひ」と言います。「鄙(ひな)にも希な」の「鄙(ひ)」です。都と地方を意味するのが「都鄙(とひ)」で、都と鄙を自由に往来、往還します。こういう都鄙の往還が兵たる立場の基本でした。
その場合、この兵たちはどういうルーツを持って登場したのかが大きな議論になります。概していうと、兵の場合には「農民の身分が上昇し、農民のチャンピオンが兵になっていく」というスタイルはなかなか考えにくいのです。現実には、貴種あるいは貴族の末裔といった人びとが様々な理由の中で地方に下ります。
以前の解釈では、地方に下って地方の名士となって、そこでしっかりと住人化していくことを「土着」と言っていました。そうして土着したのが武士であるという解釈です。
しかしそう簡単に土着が定着するわけではなくて、近年は「留住(りゅうじゅう)」という言葉がそれに当てはまると考えられています。「留住」は、「留まる」に「住む」という字を書きます。これは史料用語です。留住とはどういうことかというと、都に拠点を置きながら、一方では地方に下向し、地方と都を行き来するフリースタイルです。それが兵と呼ばれる存在の生き方でした。
こういう生き方が一般的だといわれるようになったのは、実はそんなに以前のことではありません。だいたい1970年の後半あたりから「留住」という概念が定着します。
それまでは、武士が成立する際にその前史となる兵という存在がいて、兵がいきなり土着化を達成して、その土着化の中で領主になっていくというストレートな形で議論がされてきました。しかしそれはそんなに簡単ではありません。そのため、土着化の前に土着化とは異なる概念として「留住」という概念をしっかり設定することによって、兵の実際のあり方を議論の俎上にし、これを前提にしながら武士を考えていこうとなりました。
広く薄い「私営田領主」から狭く深い「在地領主」へ
武士は領主であると同時に、戦士的な要素を持っています。兵も同時にそういう側面を持っていますが、兵段階の領主は「私営田領主」として概念化されている一方で、武士の場合には「在地領主」という違う言い方で概念化しています。
では、この二つはどう違うのかというと、私営田領主は、例えば土地や人々を支配するときに広く薄く支配をしています。そのため、地域支配の特色においては、広さに最大のポイントがあります。広いのですが、地域の人々との関わりはそんなに深くはなく、むしろ浅いのです。広く浅いのが兵段階の特色なのです。
それゆえに、兵段階は結局、都と地方を行き来しているので広域性がありますが、地域一点を集中的に支配できているわけではないので、支配の関係も薄く浅いことになります。
ところが、兵段階がさらに進化していく院政期の12世紀ぐらいになってくると、兵が武士化していきます。
武士化していく段階のポイントとして、「源平藤橘」と名乗っていたのが兵だとすれば、武士の段階はいわば地域との関係が密接になって深掘りしていきます。狭く深いので、支配の実質が非常に濃厚になっていきます。濃厚になっていくので、地域の名士として活躍の度合いが深まっていき、地名としての「名字」を名乗る段階に入ります。
つまり、兵は名字を名乗っていないということです。あくまでも平将門、藤原純友というように「源平藤橘」を名乗っていました。
ところが、院政期である11世紀の末から12世紀ぐらいになってくると、いわば留住段階を終えて、まさしく土着のスタイルが一般化してきます。その土地、地域との関わりがものすごく深くなってきます。それゆえに、土着化による地方の名士としての立場が名字を名乗らせるようになってきます。
よく軍記作品で、「やあやあ、我こそはどこそこの国の住人なり」で使われる「住人(じゅうにん)」は、単純に「そこに住む人」を「住人」と呼んでいるのではなくて、その地域の名士として地域の人びとが認知した存在が「住人」と呼ばれているのです。そして、その「住人」が名士という形で武士化していくということです。
要するに、「兵」が「武士」になる段階にはひとつの大きな溝があることを考えて議論をすべきだということです。
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