2022年1月9日(日)スタートのNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、源頼朝の妻・北条政子の弟である北条義時が主人公。北条氏が源頼朝とともに挙兵し、さらに鎌倉幕府を支える御家人たちのパワーゲームのなかで権力の頂点に上り詰めていく姿が描かれます。
北条氏が権力を握る過程では、熾烈かつ凄惨な抗争が繰り返されました。三谷幸喜さんによる脚本ということもあり、濃密な人間模様が描かれることでしょう。しかし、そもそも北条氏がどのような武家で、なぜ権力を握れたのかについて、案外、知らない人も多いはず。
1話10分で学ぶオンライン教養動画メディア「テンミニッツTV」(イマジニア)では、今回の大河ドラマの時代考証をお務めの坂井孝一先生が、「10分でわかる『鎌倉殿と北条氏の関係』」という講義をされています。今回、その講義録を前編・後編に分けて、全文掲載してご紹介いたします。
前編では、北条氏がどのくらいの規模の武家だったのか、そして、源頼朝の女性トラブルがいかに歴史を動かしたのかについて、坂井先生がわかりやすくご解説くださいます。
※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp/lp/serai/)からの提供です
坂井孝一(さかいこういち)
1958年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。博士(文学)。現在、創価大学文学部教授。専門は日本中世史。平安末期・鎌倉初期の政治史・文化史、室町期の芸能史を主な研究テーマとする。著書に、『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)、『源氏将軍断絶』(PHP新書)、『承久の乱』(中公新書)、『源頼朝と鎌倉』『曽我物語の史的研究』(以上、吉川弘文館)、『源実朝』(講談社選書メチエ)など多数。愛猫家。
北条氏が本拠としていたのは、伊豆の田方郡北条・狩野川の中流域からやや下流の地域でしたが、実は、それほど大きな武士団ではありませんでした。
当時、各地方のトップである国司には、都から派遣された貴族が任じられ、「守(かみ)」という位が与えられました。その下に、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)などの位が続きます。
地方の有力武家は、2番目に位置する介に任じられることがありました。たとえば、相模国三浦郡を本拠地としていた三浦氏は「三浦介」を名乗っており、相模国のなかで相当な力を有していました。
しかし北条氏は、三浦氏のような大きな力はありませんでした。その北条氏が、なぜ鎌倉幕府で大きな影響力を持つことになったのでしょうか――。
北条氏は伊豆に本拠地を持つ中規模程度の武士団だった
――皆さま、こんにちは。本日は坂井孝一先生に鎌倉時代の執権北条氏についての講義をいただきたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
坂井先生 よろしくお願いします。
――坂井先生は、『鎌倉殿と執権北条氏:義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(NHK出版新書)『源氏将軍断絶:なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書)『承久の乱:真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書)などの書籍を出していらっしゃる一方、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証も務めていらっしゃいます。
早速ですが、本日はなぜ北条氏がああいう形で権力を取ることになったのかをうかがいたいと思います。もともと彼らは地方の小さい武士団ということになるわけですよね。
坂井先生 はい。北条氏というのは、伊豆の田方郡北条に狩野川という川が流れていますが、その中流域からやや下流に近いほうに本拠地を持つ、中規模程度の武士団でした。
――中規模というと、だいたいどのぐらいの規模でしょうか。
坂井先生 例えば相模国(現・神奈川県)には三浦氏という武士団がありました。彼らは、三浦半島から鎌倉に続くあたりの土地を支配下に収め、「三浦介(みうらのすけ)」と名乗りました。「介」という名乗りは、相模国全体で国司の次の地位だということになります。行政面でも相当な力を持っていたといわれます。
北条氏は三浦氏などに比べると、治めている土地が非常に狭く、配下にいる武士の数も少ない。一族一門を広げてみても、大した人数にはなりません。また、彼らのいた伊豆国の三島にも同じように国司がいて、その役所がありましたし、先述した「介」という国司に次ぐ地位としては狩野氏という別の一族がいました。
逆にいうと、北条氏は三浦氏のように国司に次ぐ地位にはなれず、国衙(国司の役所)における「在庁官人」に留まりました。そこに勤め、事務的なことや行政の一端を担う規模の地位の武士団だったということになります。
なぜ源頼朝は次々と女性トラブルを起こしたのか?
――かなり小さい規模の武士団だった北条氏が、なぜあの鎌倉幕府の第一権力に到達するのかというところが興味深いですね。
坂井先生 そうですね。
――ここはそもそもどういうキッカケになるのでしょうか。
坂井先生 これは本当に歴史の面白さ、運命のめぐり合わせといった問題になります。伊豆国でも今の伊東温泉のあたりを支配下に置いていたのは、平家とつながりがあり、その後ろ盾を得て勢力を持ってきた伊東氏という武士団でした。ちょうどそこへ、流罪になった源頼朝が流されてきたのです。
頼朝は皆さんご存じのように、普通の東国武士などとはかなり格の違う、当時の言葉でいいますと「貴種」(高貴な家柄に生まれた人)というランクに位置している武士でした。
平治の乱に敗れて伊東氏のもとへ流されてきた源氏の頼朝は当時14歳でしたが、伊東氏と北条氏は姻戚関係にあったのです。
――なるほど。
坂井先生 伊東祐親(すけちか)の娘が北条時政の妻ですから、祐親からいえば時政は娘婿、時政からいえば祐親が義理の父にあたる関係にありました。
頼朝は伊東氏のもとで15~6年、14歳から30歳ぐらいまでを流人として生活します。その間に少しトラブルを起こして伊東氏から追放される形になりますが、その面倒を引き受けたのが北条氏でした。
――トラブルというのは、女性絡みのトラブルですか。
坂井先生 そうです。頼朝はその後、挙兵が成功して幕府を開いてからも、さまざまな女性関係のトラブルを起こします。これは個人的な資質なのか、それとも京都で生まれ育ち貴族社会に通じていたからなのかは分かりません。
当時の貴族の間では女性関係は割にルーズなのが当たり前でしたが、その感覚で東国に暮らすとやはりトラブルになってしまうわけです(東国では、一夫一婦制的なあり方が当たり前でした)。
ともあれ時政が祐親の娘婿なので、頼朝を受け入れます。しかし、そこでも頼朝は女性問題を起こします。それが、時政の長女・政子との勝手な婚姻でした。
北条政子との結婚から「以仁王の令旨」による挙兵へ
坂井先生 ただ、時政は伊東氏とは違って、平家とほとんどつながりのない中規模程度の武士です。先ほど国衙の在庁官人といったように、行政には多少関わっていました。伊豆国の知行国主が源頼政で、頼政の息子がその下の国司になっている関係から、(北条氏と)源氏はもともとつながりがあったわけです。
したがって、祐親のように怒ったりはせず、最初は驚いたものの政子と頼朝の結婚を受け入れます。なんといっても、これが運命の始まりということになります。
――はい。そうして、皆さんご案内のように、いわゆる源平合戦に入っていくということですね。
坂井先生 はい。平家に対する反発が都周辺をはじめとして全国に広がっていき、ついに起こったのが「以仁王(もちひとおう)の乱」でした。以仁王は後白河法皇の皇子で、(平清盛の孫の)安徳天皇が即位してしまったことに大きな不満を持っていました。彼は「平家の世はもうこれ以上続けさせるわけにはいかん」ということで、諸国に隠れている源氏に立ち上がれという決起の命令書を密かに伝えさせます。これが「以仁王の令旨」といわれるものです。
以仁王の令旨を伝えられた頼朝は、大義名分ができたということで挙兵をします。とはいっても、それまでの20年を流人として過ごしていますから、自分の周りに戦力になるような信頼できる武士はほとんどいないわけです。
そうなると「窮鼠(きゅうそ)かえって猫を噛む」という形の挙兵にならざるを得ない。そこで、頼りになったのが政子の父である時政であり、政子の弟である宗時・義時という北条氏の一族だったのです。
そのように、北条氏の力を借りて(頼朝は)挙兵を成功させ、伊豆国の目代(もくだい)という地位に就いていた平家の一族である山木兼隆を討ちます(1180年)。これは「山木攻め」といわれ、辛勝したものですが、非常に重要な一戦になりました。
次回後編では、なぜけっして規模が大きくなかった北条氏が、御家人たちのなかで権力闘争を勝ち抜くことができたのかに迫ります。
協力・動画提供/テンミニッツTV
テンミニッツTVでは、さらに「北条氏と鎌倉殿」について坂井孝一先生に深掘りしてお話しいただく講義が配信されていきます。話題の「八重(演:新垣結衣さん)」の実像も詳しく解説。初回登録時は31日間無料視聴できますので、是非ご覧ください。
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