鎌倉の源治山公園の源頼朝像。

1979年の『草燃える』以来、40数年ぶりに北条義時が主要キャストなる大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放映まで2か月。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が放映開始まで『待てずに』、ドラマの魅力をリポートする。

* * *

物語前半の主人公は源頼朝か?

2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、2代目の執権として鎌倉幕府の権力を確立した北条義時(演・小栗旬)を主人公とするドラマだ。治承元年(1177)、義時の姉北条政子(演・小池栄子)と、源頼朝(演・大泉洋)とが結ばれる。当時、義時は満14歳の少年だった。頼朝が平氏打倒のために兵をあげるのは、その3年後の治承4年、義時は17歳ということになる。

元服は済ませていただろうが、まだ少年の面差しが残っていただろう。これに対して、頼朝は17歳も年上で、ほとんど父子といっても良い年齢差だ。旗揚げの段階では、ちょうど油の乗り切った34歳だった。

おそらく「鎌倉殿の13人」は、スタートしてからしばらく、物語の根幹をなす歴史を動かしてゆくのは頼朝で、若き義時はその観察者ということになるだろう。少年義時の目を通して見た鎌倉、御家人、そして頼朝の姿が、物語前半の主たるモチーフになると思われる。

ちなみに、ドラマのタイトルにもなっている「鎌倉殿」とは武家政権の棟梁(リーダー)のことで、頼朝が将軍(征夷大将軍)となったことから、将軍=鎌倉殿ということになった。主人公である義時は、やがて鎌倉殿を支える13人の首脳陣のひとりへと成長してゆく。

「頼朝は源氏の嫡流」は事実か

さて、その頼朝だが、非常に大ざっぱにいうと、「平治の乱」という源氏と平氏の戦いに敗れ、本来であれば死罪となるところ、まだ幼少であったために助命されて伊豆に流された、いわば流人の身だった。とはいえ、武家の名門源氏の御曹司なので、かなりのお坊ちゃん育ちだったと考えられている。

いま、「武家の名門源氏の御曹司」とサラリと書いてしまったが、実はこのあたりが微妙なところで、頼朝が源氏の嫡流だというのは、流人だった頼朝が挙兵をして、反平家の武力闘争を始めるようになってから、しきりに喧伝されるようになったフレーズであり、源氏の嫡流というのは、必ずしも自明のことではなかった。

源氏と一口にいっても、実は膨大な数に枝分かれした枝葉のようなもので、その「幹」がどれであるか、いまひとつ明瞭でない部分もある。歴史に名を遺した人物が嫡流だったとは必ずしもいえないが、著名な人物を生み出した家系が、結果として嫡流を名乗るという事態も、源氏に限らず古い家系にはよくある話だ。

数ある源氏の中でも、もっとも成功を収めて多くの支脈を生み出したのが、第56代清和天皇の6男貞純親王の子、経基王に始まるとされる清和源氏だ。このころ、天皇の子どもや孫の多くは、「氏」をもらって天皇家から離れるという事例が見られた。経費節減のために追い出されたというのが実情な場合も少なくないだろう。彼らは天皇家の家族から、家臣の身分に落とされることになる(臣籍降下)。経基王は、「源」の氏と「朝臣」の姓(一族の称号)を賜り、「源朝臣経基」と名乗るようになった。

この源経基の子の満仲には「頼光・頼親・頼信」という3人の息子がいた。頼光は摂津国(大阪府)に本拠を置いたのでその子孫は摂津源氏と呼ぶ。同じように、頼親の子孫は大和国(奈良県)に根付いて大和源氏、頼信の子孫は河内国(大阪府)に土着して河内源氏と呼ばれるようになった。

河内源氏は源氏のセンター・ポジション

この河内源氏の家系から、教科書にも出てくるような人物が次々と登場することになる。頼信は「平忠常の乱」という房総半島で起きた地方武士の反乱を平定した。そして忠常の子頼義と、さらにその子の義家は、東北地方で起きた前九年・後三年の役を平定したことでよく知られている。義家は、八幡太郎の通称でも知られる名将で、武士の鏡として崇拝されることになる。

この頼信・頼義・義家三人を送り出したことで、河内源氏は源氏諸流の中でも名門、あるいは嫡流とみなされるようになったのだろう。しかしその後、河内源氏はしりすぼみとなってしまう。それは、源氏と同じく天皇から発したとされる武家の名門桓武平氏、そのなかでも伊勢平氏と呼ばれる家系の隆盛と反比例するものだった。

八幡太郎義家の嫡男義親は、不始末を起こした末に誅殺された。跡を継いだ四男(弟との説も)の為義は、保元の乱に敗れて死罪。その子義朝は、保元の乱では勝利者の側だったが、やがて伊勢平氏の平清盛との抗争に敗れ、平治の乱で命を落としてしまった。

その義朝の子で命を助けられたのが、鎌倉殿こと頼朝ということになるのだが、頼朝にとって祖父にあたる為義は、義親の四男だったこともあり、本当に河内源氏の嫡流とみなされていたかどうか疑問視されている。孫の頼朝が「自分は(河内)源氏の嫡流だ」とアピールし、実際に武家政権を作り上げたものだから、さかのぼって「爺さんの為義が源氏の嫡流だったということでいいんじゃない?」というのが真相かもしれないのだ。

いずれにせよ、頼朝が清和源氏、あるいは河内源氏の嫡流だったというのは、どうもあやしく、だから「初めから武家の棟梁となることが約束されていた」というのも、どうも正確ではないようだ。

さまざまな源氏たちの生き残り競争

事実、頼朝が挙兵した当時、諸国では「別の源氏」が続々と旗揚げしていた。頼朝の同母弟である希義は、土佐国(高知県)で平氏に追討されている。

また東国に目を向けると、常陸国(茨城県)では佐竹秀義や志田義広が、上野国(群馬県)では新田義重が、甲斐国(山梨県)では甲斐源氏の武田信義、加賀美遠光、安田義定が、信濃国(長野県)では木曾義仲や平賀義信が挙兵している。さらに美濃国(岐阜県)や尾張国(愛知県)や京周辺でも、源氏の諸流が陸続と挙兵していていた。彼らはみな、それぞれの家の事情や、平氏政権に対する不満などを理由に挙兵したのであって、当初から頼朝の指揮下にあったわけではない。

それどころか、木曾義仲の父である義賢と上記の志田義広は、源為義の子であり、すなわち頼朝の父義朝の弟だが、為義と義朝は父子ながら対立していて、保元の乱ではとうとう敵同士になった。義賢と義広は父為義に近かったので、当然、義朝とは対立する。そして義賢は、義朝の子で「悪源太」という異称をもつ義平に殺害されるという末路をたどっている。つまり、河内源氏といっても、一族の内部抗争によってばらばらだったのだ。

さらにいえば、義賢の子である木曾義仲も志田義広も、のちに頼朝と対立して討ち滅ぼされている。つまり、頼朝は「生まれながらの武家の棟梁」どころか、河内源氏のなかにおいても、一族抗争をくりひろげ、ようやく生き残ったに過ぎないともいえるわけだ。のちに平氏を打倒した頼朝は、弟の範頼や義経を討っている。そのあたりはよく知られている話だろう。しかし、こうした「歴史的文脈」と重ねて見てくると、頼朝にとって平氏打倒というのは目的の一つでしかなく、源氏諸流のサバイバルゲームに勝ち抜いて生き残ることこそが、最大の目的であったようにも見えてくるのだ。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。

 

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