文/印南敦史
そもそも若々しい印象があるさだまさしさんが『やばい老人になろう』という本を出したことに関しては、最初ちょっとした違和感があった。だが、さださんも65歳(出版当時)になったそうなのである。「精霊流し」のヒットが1974年なのだから、考えてみれば当然といえば当然の話。65歳ということは、たしかに老人の入り口に立ったということにもなろう。
「やばい老人」とは何か?
僕は四十代までは、それなりに世間体も気にしていたし、まだまだ若造だという意識があり、自分を強く押し出そうという気にはなれなかった。それが五十歳になったときは「少しは自分の意見を言ってもいいんだ」と思えて、解放された気分になった。
そして迎えた「還暦」の六十歳では、「他人からの悪口なんてどうでもいい」という境地に達することができた。まさに、開き直りの境地だ。だからこそ、残りの人生を「おつり」と考えれば、楽に行きていけるのではないかと考えたのだ。
ならば、六十五歳になったいまは、どうあるべきか? それが、この本のテーマである。
(本書「第一章『老人力』あふれる『やばい老人』とは?」より引用)
そんな思いがあるからこそ、これから先の目標は、人から「やばい老人」と呼ばれるような「じじぃ」になることを、どう楽しんでいくかに尽きるのだと記している。となると気になるのは、「やばい老人とはなにか?」という定義である。
さださんが憧れる「やばい老人」の条件は3つあるのだそうだ。
その一「知識が豊富」
その二「どんな痛みも共有してくれる」
その三「何かひとつスゴイものを持っている」
(本書「第一章『老人力』あふれる『やばい老人』とは?」より引用)
そこで本書においては、さださんがこれまでに出会ってきて、少なからず影響を受けてきた「やばい老人」についての思いを綴っているのである。
笑ってしまうほどパワフルな祖母や「死ぬまでハードロッカーだった」父にはじまり、「精霊流し」誕生のきっかけになったという古代史研究家の宮崎康平氏、井伏鱒二氏の詩「つくだ煮の小魚」に無理やり曲をつけさせた作家の安岡章太郎氏、それが縁で会うことになった井伏氏、物事を客観的に見ようとして、「第三の目」を持とうとしていたという永六輔氏など、実に多彩である。
ちなみに永氏に関しては、この発言が印象的だ。
新たな社会をリードする「主役」は老人たち
僕は、永さんに突然こんなことを言われたことがある。
「まさし、お前、自分を信用できるか?」と。
「自分を信じてやっても、間違うことがあります……」
そう答えると、永さんは、
「そうだろう。そういうときは年寄りに聞くに限るんだよ」
そう教えてくれた。
(本書「第一章『老人力』あふれる『やばい老人』とは?」より引用)
事実、著者は若いころ、いいことも悪いことも、すべて老人たちから学んだような気がすると認めている。ときには正面からぶつかり、打ちのめされ、鍛えられ、勇気づけられたというのだ。そして、彼らの背中を追いかけながら、インスパイアされ、感化され、奮起させられたのだとも。
そして、そんな経験があるからか、これから新たな社会をリードする「主役」は、そうした老人たちなのではないかと考えているのだという。
「老人力」のある素敵な先生方との出会いがあって、ふと思ったことがある。
「こういうじじぃになるには、何をしなきゃいけないのか?」と。
そのためには、もっと人に会わなければいけない。もっと話をしなければいけない。もっと遊ばなければいけない。もっと無茶しなければいけない−−そう思ったのだ。
(本書「第三章「郷里の『やばい老人』たちが教えてくれたこと」より引用」
現在の著者のテーマは、「老人の意見を聞きたいと思わせる社会」。そこで、「あの苦しいときをどう生き延びたんですか?」というような問いに答えられるように「老人力」を高めること、そして、その「老人力」をどのように若い人たちに伝えていくかが重要な意味を持つという考え方だ。
「じじぃ」と「ばばぁ」に日本の未来がかかっている。本書は、そんな主張で幕を閉じる。
【今回の定年本】
『やばい老人になろう やんちゃでちょうどいい』
(さだまさし著、PHP研究所)
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。雑誌「ダ・ヴィンチ」の連載「七人のブックウォッチャー」にも参加。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)などがある。