文/原田伊織
「徳川近代」――。何やら聞きなれないフレーズを打ち出した本(『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』)が密かに話題を集めている。著者は『明治維新の過ち』を嚆矢(こうし)とする維新三部作のベストセラーで知られる原田伊織氏。近代は明治からというこれまでの常識に挑んだ書だ。
幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗上野介忠順は、「徳川近代」を象徴する幕臣である。その小栗が維新後、さしたる理由もなく新政府軍に斬首されたことに「維新の実像」が見えて来る。
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「戊午の密勅」
水戸の徳川斉昭や松平春嶽らが「不時登城」の処分を受けた三日後の七月八日、井伊は、海防専門、外務専門とも言うべき「外国奉行」を新設、水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利熙、そして、岩瀬をその外国奉行に任命した。全員岩瀬の同志とも言うべきメンバーで、一橋派である。井伊の腹心や南紀派に外交の分かる人材がいなかったこともあるが、こういう手を打つところが井伊の凄さであろう。
行政職の最高位である奉行に就くということは、全員にとって栄転である。今でいえば、「次官に昇進した」といったところであろう。岩瀬は、出世したのである。奉行の最低保証家禄は二千石である。岩瀬も家禄二千石、役料二百両の大身旗本となったのである。
幕府は、この体制で安政五カ国条約を一気に締結した。
このまま何事も起らなかったとしても、岩瀬は直ぐ左遷されていたかも知れない。ところが、外国奉行が誕生した一カ月後の八月八日、とんでもないことが起きた。朝廷が水戸藩に勅諚を下賜したのである。いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」である。
その内容は、勅許なく安政五カ国条約に調印した上、事後報告で済ませたことは遺憾であるとし、「不時登城」による水戸・尾張藩主の謹慎処分にも触れ、内憂外患のこの時期、大老以下幕閣、御三家、御三卿、御家門、更には譜代・外様の別なく一同評議して公武合体を図り、徳川家を助けて外夷の侮りを受けぬようにせよというものである。
この密勅こそが「安政の大獄」と「桜田門外の変」を惹き起こしたのである。そして、この密勅については、実にいい加減な解説をする書物が多過ぎる。
密勅という呼称の所為であろうが、この勅諚が秘かに水戸藩だけに下されたと受け取られがちであるが、それは違う。
この勅諚は、明らかに水戸藩と薩摩藩の陰謀によって成立したものであるが、朝廷内の正式手続きを経ないで水戸藩に下賜された。具体的には、関白(九条尚忠)の参内なしで発せられたものであった。だから「密勅」なのだ。尤も、事後に武家伝奏万里小路正房が、天皇の強い意志によるものだとして、関白の事後承認を受けている。
この勅諚は、水戸藩から二日遅れの八月十日、禁裏付大久保一翁を通じて幕府へも伝えられた。そして、その写しが摂家などから有力諸大名にも通達されている。
このように決して水戸藩のみに下賜され、幕府にも秘匿されたということではないが、朝廷は意図して先に水戸藩に下賜し、時間を置いて幕府に通達している。この点が大問題なのだ。
この密勅下賜を企てた朝廷内勢力と陰謀の主役である水戸藩京都留守居役鵜飼知信を評して言うならば、愚かにもほどがある。
「徳川近代」という時代の存在が抹殺された
今更ながら、徳川幕藩体制とは徳川家をリーダーとする大名連合体である。徳川家は決して絶対君主ではないのだ。勿論、連合体の運営は徳川家の裁量に依るが、それは連合体の総意によって「公儀」権威が成立しているからであって、厳密にいえば徳川家と「公儀」とは全く別の次元のものである。そして、一般に言われる朝幕関係とは、朝廷権威と「公儀」権威の関係を指すのであって、公儀による全国統治に関しては「大政委任」という慣例法的秩序が確立しているのだ。これによって江戸期という時代は、世界史にも例をみない長期に亘る平和を維持してきたのである。
そこへ、徳川家を無視して、更にいえば朝幕関係の根幹を踏みにじって、「公儀」に下属する水戸藩という単なる一個の分権統治単位に対して朝廷は天皇の勅諚を下賜したのだ。
これは、江戸期社会を支えてきた基本的な構造をぶち壊しにかかっていると言っても決して言い過ぎではない。こういうことをやられて黙っている政権担当者がいたとしたら、それこそ無責任というものである。社会に対する破壊行為の意味をもつものであるから、政権としては強権を発動してこれを阻止することは、当然の責務であろう。当然の責務として井伊が行った防衛措置を、官軍正史では「安政の大獄」と称しているだけなのだ。
この、世にいう「安政の大獄」の幕開けとなった京都で、水戸藩士でもあった薩摩藩士日下部伊三次、水戸藩士鵜飼知信、尊攘激派梅田雲浜、頼三樹三郎など二十数名が逮捕され、江戸でも、水戸藩士安島帯刀、福井藩士橋本左内などが処分された。死罪とはならなかったものの、岩瀬と永井尚志もこれに連座したという形で処分されたのである。
何の思慮もなく水戸藩に密勅を下賜した朝廷は、さすがに震え上がった。日米条約について「天皇御疑念御氷解」「鎖国攘夷は猶予」するとし、事実上条約締結を承認する勅許を幕府に下賜したのである。このことは、幕末史を語る上で、実に重大な史実である。
そして、安政六年に入ると、太閤鷹司政通、左大臣近衛忠熙、内大臣一条忠香などを、朝廷自ら一斉に処分した。
幕府は、水戸藩に詔勅の幕府への返納を求め、安政六年十二月、朝廷からも水戸藩に対して幕府への返納命令が出るが、藩内過激派(後の天狗党)が応じず、幕府との協調路線を採ろうとする「諸生党」との間で血みどろの内部抗争が始まる。日頃「尊皇」を喚きながら、いざとなれば朝廷の命令には従わないのが「尊皇派」「勤皇の志士」である。
この抗争の流れで、過激派が脱藩して江戸に入り、「桜田門外の変」というテロを惹き起こすことになる。
薩摩・長州に牛耳られていたとはいえ、このような稚拙な事件を惹き起こす朝廷とは、よほど「人材」というものがいない組織であったとしか言えない。“弾圧”と呼ばれているが、井伊の政権担当者としての対応は当然である。ただ、現代感覚からみたものとはいえ量刑に違和感を感じるのは、彼の中に一橋慶喜擁立に走った者に対する「復讐心理」が働いたからではないだろうか。この見方が的を射ているとすれば、その点だけは政権担当者として失格であろう。
単純なことを付言しておくが、世にいう「安政の大獄」は条約締結とは直接的には無関係なのである。
安政五年九月五日、岩瀬は、外国奉行から作事奉行に左遷された。そして、おおよそ一年後の安政六年八月、「安政の大獄」の裁きによって作事奉行も解任、「永蟄居(えいちつきょ)」を申し渡された。この時、水戸藩安島帯刀、福井藩橋本左内などが死罪となっている。
明治になってからのことだが、政争の底流となった一橋慶喜擁立運動について松平春嶽は、水戸烈公(斉昭)の私心に乗せられてしまったなどと〝言い訳〞をしている(『逸事史補』)が、どこまでも卑怯な人物である。一橋擁立の首謀者は、誰がどうみても松平春嶽である。
時が前後するが、岩瀬は、安政五年六月十九日、日米修好通商条約に調印した後、前述の通り七月八日に外国奉行に就任、二日後の七月十日に日蘭修好通商条約、翌七月十一日に日露修好通商条約、七月十八日に日英修好通商条約と立て続けに調印した。そして、九月三日に日仏修好通商条約に調印し、その二日後の九月五日に作事奉行へ左遷された。
最初から憎しみ合っていた井伊と岩瀬。しかし、井伊は、安政五カ国条約をきっちり仕上げさせた上で岩瀬を外交の第一線から外したのだ。このあたりの井伊のマネジメントをみていると、事、通商条約問題に関しては彼は単なる強権政治家ではなかったと言えるだろう。
一年後の安政六(1859)年八月二十七日、岩瀬は水戸藩の反逆に連座したという形で「永蟄居」の処分を受けるが、栗本鋤雲によれば、井伊は、岩瀬は本来なら死罪に相当するが、国家の平安に尽くした功績が大きいと評価し、「永蟄居」に留めたと考えていたらしい。
岩瀬が外交の第一線から去っても、締結した条約は勿論健在である。彼は、日米条約の最後に、「条約批准のため日本から使節を派遣する」とわざわざ書き込んだのである。言うまでもなく、自らワシントンへ乗り込む心
算であったのだ。それが叶わず、岩瀬に代わって航米したのが小栗上野介忠順であった。
文久元(1861)年七月十一日、岩瀬忠震は満年齢でいえば四十二歳という若さで死去した。ひと言で表現すれば、「快男児」と言うべき男であった。
明治新政権が成立して、岩瀬の偉業とも言うべき功績は埋め去られた。これから述べる小栗も然り。「徳川近代」そのものが土中深く埋め去られたのである。
薩長新政権は、自分たちこそが「進取」であり「開明派」であった「ふりをする」必要があったのだ。まるで自分たちが「開国」したかのような歴史を書き上げ、「徳川近代」を支えた近代センスをもった幕臣官僚たちの業績を隠蔽するだけでなく、「徳川近代」という時代の存在そのものを抹殺したのである。
誇り高き安祥譜代【消された「徳川近代」明治日本の欺瞞】3へつづく。