文/原田伊織

「徳川近代」――。何やら聞きなれないフレーズを打ち出した本(『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』)が密かに話題を集めている。著者は『明治維新の過ち』を嚆矢とする維新三部作のベストセラーで知られる原田伊織氏。近代は明治からというこれまでの常識に挑んだ書だ。

幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗上野介忠順は、「徳川近代」を象徴する幕臣である。その小栗が維新後、さしたる理由もなく新政府軍に斬首されたことに「維新の実像」が見えて来る。

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誇り高き安祥譜代

小野友五郎と米軍ブルック大尉が乗船していなければ咸臨丸は太平洋を横断することなどとてもできなかったであろう。付け加えれば、提督木村摂津守が、日米両国の乗員から成るチームをよく統率したのである。

ところが、私たちは咸臨丸といえば勝海舟の手によって太平洋横断に成功したという、全く史実に反するお話を百五十年にも亘って叩き込まれ、多くの人が小野友五郎という名前など「聞いたこともない」という状態であったのだ。益して、ブルック大尉と言っても、それってどこの国の人? と不審な顔をするのが精一杯であったのだ。

因みに、ブルック大尉の曾孫に当たる方やそのご子息はご健在であり、本書の刊行に際して関連写真の探査をアシストしてくれていた版元スタッフがコンタクトを取ることに成功した。

大体、幕末史、幕末外交史を語る時、咸臨丸のことを語る必要は全くないのだ。強いて咸臨丸の太平洋横断を語れば、勝海舟という人物が如何に海事に関して無能であったかという話にしかならないのである。そのような話に意味があるとは思えない。

にも拘らず、永年に亘って延々と勝海舟の偉業として公教育までもが子供たちに教え込んできた咸臨丸物語とは、欺瞞に満ちた明治日本の手による悪質な作り話である。これによって、本来知っておくべき小野友五郎とブルック大尉、そして、木村摂津守といった名前が歴史から消えてしまった。このことが、大問題なのだ。

前節まで述べてきた、日米修好通商条約の締結に心血を注いだ岩瀬忠震も同様である。多くの人が「誰? それ?」と不審な顔をすることであろう。小野友五郎と共に、それほど知名度が低いのだ。いや、知名度がないのだ。

岩瀬にしてこの有様であるから、水野忠徳、川路聖謨、永井尚志、井上清直、堀利煕等々に至っては「その他大勢」にも入っていない。要するに、日本の近代の幕を開いた「徳川近代」という時代の存在を抹殺した明治日本は、「徳川近代」を支えた幕臣たちも歴史から抹殺してしまったのである。

小栗上野介忠順
(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

「徳川近代の時代の柱」小栗上野介忠順

多くの徳川近代人が明治新政権の手で抹殺される中で、特筆されるべき事例が小栗上野介忠順であろう。この人物こそ、徳川近代という時代の柱とも評すべき存在であった。明治維新至上主義者である司馬遼太郎氏でさえ、小栗のことを「明治の父」と呼んでいる(『「明治」という国家』日本放送出版協会)。

もっとも、司馬氏は官軍正史そのままに明治を「日本の夜明け」と位置づけているから、「明治の父」という意味が「近代を開いた明治の魁」程度の意味になってしまっており、私はこの小栗評が的を射ているとは思わない。これは、明治という時代の理解が全く異なるので、やむを得ないのだ。

ただ、近年とみに小栗のことだけは従来よりは語られるようになった。徳川近代を運営した幕臣たちの中でも、それだけ小栗が傑出していたということであろう。

確かに、小栗の知力、実践力、交渉力、危機対応力は並外れたものであり、アメリカ合衆国高官やアメリカメディアの小栗評もこのことを裏付けている。家禄二千五百石という大身旗本であった小栗。普通、これほど家柄に恵まれている直参には、これほどの駿傑は出ないものである。二千五百石の直参旗本の家格は、小さな大名家に匹敵する。小栗家は神田駿河台に屋敷を与えられていたが、近隣の町方は「小栗の殿様」と呼ぶ。それが普通の呼び方である。現実に、小栗の妻は林田藩一万石の前藩主建部政醇の息女である。これで家格の“釣り合い”がとれているのだ。

小栗は、必死に幕府財政、ひいては幕府そのものを支え、建て直そうとした人物であるが、それは大身の直参旗本としては当然であるという見方もできるだろう。益して、小栗家は「安祥譜代」である。小栗自身にも、その誇りがある。その小栗が、最後には徳川という枠を超越し、国家を意識して行動する。「安祥譜代」という出自をもつことを矜持としながら、徳川「公儀」という自らの基盤を超越していった点に、彼が「徳川近代」の柱と位置づけられる理由があるのだ。

上級旗本だった小栗家

誇り高き安祥譜代・小栗家を不動の直参としたのは、四代忠政である。十四歳で出陣した「姉川の合戦」から、三方ケ原、小牧長久手、関ヶ原、大坂の陣と、次々と武功を立て、たびたび一番槍の高名を挙げたところから、「また一番槍」という名を挙げ、「又一」と名乗ることを命じられたという。これ以降、小栗家当主は歴代「又一」を名乗ることとなった。小栗又一忠順は、第十二代となる。

直参旗本という身分・家柄についても若干補足しておきたい。

改めて旗本とは、石高一万石未満で将軍に御目見できる格式をもつ将軍直属の家臣である。御目見できない直参を御
家人と言う。

江戸中期の数字であるが、旗本は約五二〇〇人、御家人は約一万七二〇〇人いた。「旗本八万騎」などと言われるが、従者、小者を加えないと八万騎にはならないのである。

旗本は、実際に所領をもつ「知行取」と俸禄米を支給される「蔵米取」に区分されるが、五二〇〇人の内、二二六〇人が知行取、二九四〇人が蔵米取であった。
この知行取の石高分布は以下の通りである。

・三千石以上       246人
・千石〜三千石未満    573人
・五百石〜千石未満    793人
・五百石未満       648人

石高でみても、小栗家は上級旗本であったことが分かる。

旗本の地方知行の総高は二百六十三万石とされ、知行取二二六〇人の一人当たり平均を出してみると約一千百六十四石となる。やはり、小栗家はこれを上回っている。

旗本が各地に知行地をもっている地方知行という形は、幕府が本質的に軍事政権であり、旗本は棟梁の直轄軍であることから成立したものである。いざ戦となれば、旗本は一党を引き連れて馳せ参じなければならないのだ。この直参としての基本性格は、鎌倉幕府における御家人と全く変わらない。

幕府は、慶安二(1649)年に「軍役人数割」というものを定めている。石高によって戦場へ引き連れていく人数が異なるのだ。それは、以下のように定められていた。

・二百石     5人
・五百石    11人
・千石     21人
・二千石    38人
・三千石    56人
・五千石   103人
・九千石   192人

二千五百石の小栗家の場合、47人の一族郎党を引き連れて馳せ参じることになっていたのだ。勿論、長い泰平が続き、徳川近代ともなればこの形態は形骸化しているように映る。ところが、幕末の軍制改革に際してこの旗本の軍役というものは改革を考え、実施していく上で生きていたのである。

軍事の近代化とは、歩兵部隊が成立していたかどうかが一つのポイントになるが、幕府歩兵隊の成立に、この旗本の軍役形態が深く関わってくるのである。

さて、近隣の町方から「殿さま」と呼ばれていた上級旗本小栗忠順は、勿論歩兵部隊の成立、即ち、軍事の近代化にも大きな業績を残すことになるのだが、彼の軍事以外の面も含めた近代化施策というものは、彼がポーハタン号で太平洋を渡ったことを抜きにしては語れないのである。

次回につづく。


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