「歴史は勝者がつくるもの」とは世の理。敗者の歴史は後世顧みられることもなく、闇に埋もれてしまうこともある。原田伊織氏が近著『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』で提唱する「徳川近代」も然り。
元『歴史読本』編集者で歴史書籍編集プロダクション・三猿舎を経営する安田清人氏による直撃第二弾は、咸臨丸太平洋横断の虚実に迫る。
虚構だらけの咸臨丸渡海
――咸臨丸の太平洋横断は、幕末維新のキーマンの一人である勝海舟について語る際、絶対に落とすことのできない「栄光の歴史」として語られてきました。
原田 これはどうしても訂正しておかなくてはならない「欺瞞」です。咸臨丸の渡航自体は、もちろん日本にとって記念すべき出来事ではありますが、遣米使節の派遣という大事業の一環に過ぎませんし、それは決して勝海舟の「偉業」などではありません。
――咸臨丸はなぜアメリカに渡航したのでしょう。
原田 まず安政五年(1858)に日米修好通商条約が締結されます。国際条約ですから、批准書を交換する必要がある。そこで、安政七年に遣米施設が派遣されることになります。正使が新見正興、副使は村垣範正、そして目付が小栗上野介忠順です。彼らは、まさに「徳川近代」を支えた優秀な官僚たちでした。なかでも小栗は、開明的で当時としてはかなり抜きんでた国際派と評価できます。小栗ら一行は、アメリカ軍艦のポーハタン号に乗船してアメリカを目指しました。
このとき、幕府が進めてきた海軍伝習の成果を試すために、幕府軍艦を随行させることになります。それが咸臨丸でした。つまり、この使節派遣の主役はあくまでもポーハタン号。「咸臨丸の偉業」というのは、そもそも後に勝が自己宣伝のためにつくり上げた虚像なのです。咸臨丸での渡航時、勝は軍艦奉行木村摂津守喜毅の下で教授方頭取を務めました。木村が提督、勝はその下の艦長という位置づけです。しかし、勝は出航後すぐに激しい船酔いに苦しみ、アメリカ到着までに三回しか船室から出てこなかったと言います。まったく役には立たなかったということです。
――勝海舟が咸臨丸を操縦し、見事に日本人だけの力で太平洋を渡ったというイメージで語られています。
原田 勝という人は、調整能力や折衝の能力は優れていたと思います。しかし、船舶の運航や航海などの海事関係は、からっきしダメだった。ですから、長崎海軍伝習所に一期生として入学したにもかかわらず、一度落第しているくらいです。そして海軍の伝習を受けていたにも関わらず、船酔いが治らなかったのですから、自然環境にも弱かったのでしょう。端的に言って船乗りには向いていません(笑)。
勝の経歴を見てくると、確かに海軍一筋で来たように見えます。軍艦操練所頭取、軍艦奉行、海軍奉行並を歴任しています。しかし、実は勝はこれらの役職に就いたかと思うと免職され、しばらくするとまた任用されたりしている。要するに就職と離職を繰り返しているのです。したがって、勝の海軍士官としての能力には疑問を持たざるを得ません。
――勝は無能だったのでしょうか。
原田 父親の勝小吉ゆずりなのか、弁舌は巧みだったし、調停能力、周旋能力はあったでしょう。その力で幕末を生き抜いたと言ってもいい。しかし、船乗り、海軍士官としては落第です。木村の証言によれば、勝は太平洋上で癇癪を起こし、「俺はもう帰る」と駄々をこねて周囲を困らせたといいます。こういう人物が、人望があるわけがない。当然、士官だけでなく水主たちからも疎んじられたようです。
――それでよく咸臨丸はアメリカにたどり着けましたね。
原田 実際、咸臨丸の操船を主体的に行ったのは、アドバイザー的な立場で同乗していたブルック大尉以下のアメリカ人でした。日本人で彼らの作業に加わる技量をもっていたのは、中浜万次郎と小野友五郎、そして浜口興右衛門の三人程度。なかでも小野友五郎は、ブルック大尉が戦力として頼った、ただ一人の日本人乗組員なのです。咸臨丸は、ブルック大尉と小野友五郎がいなければ、確実に沈んでいたでしょう。我々が知っている「咸臨丸物語」は、勝を主人公とする物語です。しかし、本当の主人公はこの二人だったのです。
勝は後に『氷川清話』などの回想録で、自らを正当化する証言をたくさん残しています。しかし、木村摂津守や赤松大三郎、福沢諭吉など、咸臨丸に同乗していた複数の人の証言があるのですから、もういい加減、勝の怪しげな回想に頼るのではなく、彼らの声に耳を傾けて、あらたな「咸臨丸物語」を描くべきです。それが、「徳川近代」を正しく理解することにつながると、私は思います。
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咸臨丸渡海は、勝が幕末政治の表舞台に登場するきっかけとなった「栄光」の出来事だが、それさえも「虚構」であったとは。小野友五郎ら、「徳川近代」を作った人々の活躍が、勝の盛名によって隠されている現実を、原田さんは厳しく指弾する。
消された「徳川近代」明治日本の欺瞞
原田伊織/著 小学館刊
単行本 319ページ
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388652