文/原田伊織
「徳川近代」――。何やら聞きなれないフレーズを打ち出した本(『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』)が密かに話題を集めている。著者は『明治維新の過ち』を嚆矢とする維新三部作のベストセラーで知られる原田伊織氏。近代は明治からというこれまでの常識に挑んだ書だ。
幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗上野介忠順は、「徳川近代」を象徴する幕臣である。その小栗が維新後、さしたる理由もなく新政府軍に斬首されたことに「維新の実像」が見えて来る。
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小栗に影響を与えたワシントン海軍造船所
昭和二十七(1952) 年、敗戦日本が独立を回復したとされる年、討幕軍東山道軍の手先に小栗上野介忠順がまるでテロのような形で斬首されて八十四年目、群馬県渋川市で小栗直筆の日記二冊と家計簿三冊が発見された。小栗斬首直後の掠奪から関係者が秘かに守り抜いたものであろう。
明治新政権にとって、小栗ほど存在感が大きく、それ故に怖かった幕臣はいない。このことが、明治近代(明治〜平成)になってから小栗が歴史から抹殺され、学者も教育者もお上に従って小栗を土中深く埋めたまま放置しておいた理由である。その実、何のグランドデザインも描けなかった明治新政府は、小栗の描いた新国家の青写真に沿って歩むしかなかったのだが、幕末史の本道とはあまり関係のない吉田松陰や坂本龍馬が語られることはあっても小栗にス
ポットが当てられることはなかった。つまり、発見された日記、家計簿が細密に分析されることはあまりなかったと言っていい。
国立歴史民俗博物館名誉教授高橋敏氏の『小栗上野介忠順と幕末維新』(岩波書店)は、この日記と家計簿を丹念に読み込んだ労作であり、本書もこれを大いに参考にさせていただいた。
実は、日記、家計簿と共に発見された幾つかのモノがあった。
それは、グラス、ネジ、バネ、紙製の空箱など、万延遣米使節目付として訪米した時のアメリカ土産と推断されるモノであった。これらの小さなモノ史料が、小栗の西欧工業社会をモデルとした殖産興業による近代国家建設の情熱を物語っている。
小栗は、ネジやバネをどこで手に入れ、どういう思いで持ち返ったのであろうか。
前節で触れた通り、批准書交換という主目的を終えた使節団一行は、四月五日にワシントン海軍造船所を訪れている。あくまで見学のための訪問であるが、こういうところでも彼らは、儀仗兵から栄誉礼を受け、軍楽隊が演奏し、祝砲まで放たれるという歓迎を受けている。
ワシントン海軍造船所とは、ひと言で表現すれば、鉄の総合工場である。艦船に必要なあらゆる鉄製品がここで製造されていたのだ。船体は勿論、蒸気エンジン、ボイラー、パイプ、ハンドル、ボルトやナット、大砲、大砲の砲弾、ライフル銃の銃身や部品、ミニエー銃の弾丸、榴弾砲、果ては船室のドアノブに至るまで、艦船に必要な鉄製品を網羅して製造する様は、小栗たちを大いに驚かせたことであろう。
実は、鉄製品だけではない。
当時の軍艦の船体は木造である。この造船所には木工所もあり、階段、床、ベッドやドア等々、やはり艦船に必要な木工品をすべて製造していた。当時、五千トンクラスの船に使う材木は民家五〜六十軒分とされ、船室を造るということは家屋を造るということと変わらなかったのである。
更に、造船所内には製帆所もあった。既に、蒸気船の時代であり、軍艦も当然蒸気船であったが、燃料の石炭を節約するため蒸気船も普段は帆を張って風で走るのである。つまり、厳密には、帆走汽船なのだ。その帆を造るのが製帆所であり、他に帆を操作するロープを製造する製網所も造船所内に備わっていた。
つまり、ワシントン海軍造船所は、他の工場などから部品を集めてきて艦船を組み立てる工場ではなく、艦船に必要な部材から艦船そのものまで、軍艦のすべてを製造する軍艦の総合製造工場であったのだ。このことが小栗たちを大いに驚かせたようである。
もう一つの驚きは、この工場の動力そのものが蒸気機関であったことだ。使節団の者は、蒸気船の動力が蒸気機関であることは、既に当然知っている。ただ、その蒸気船を造る工場の動もまた蒸気機関であることに、目を見張った。このことは、見学の大きな成果であったと言えるだろう。殆どの学者や歴史家に「ボンクラ」扱いされている副使村垣範正は、「この仕組みを導入すれば国家にとって大変な利益となる」という感想を日記に記している。
恐らく、小栗も同じ思いであったろう。この造船所見学の際、例のネジを譲ってもらったのではないだろうか。彼は、このネジを大事に持ち帰り、後に知行所権田村へ移住する時も持っていっているのだ。
小栗を語る時、誰もが先ず横須賀造船所建設のことに触れるが、この、日本最初の近代工場建設にワシントン海軍造船所での見聞が大きく影響していたことは疑いのないところである。
小栗が選んだパートナーはフランス
安政年間、幕府はオランダから贈られた観光丸やイギリスから贈られた蟠龍丸の外、オランダ製の咸臨丸、朝陽丸といった洋式艦船を保有していた。軍艦を初めて国産したのは、波濤の章で述べた小野友五郎が建造した「千代田形」と呼ばれる小型蒸気軍艦で、これは文久(1863)年のことである。
海防の観点から軍艦は必要であったが、これを自前で建造するには造船技術は勿論であるが、その施設とそれを造る資金が必要である。艦船を自前で造るか列強から買うかという問題については、幕府では買船派が主流になっていた。
艦船に故障は付き物である。その修理をどうしていたかといえば、当時は大きな修理は上海やバタビア(ジャワ)まで船を曳航していき、現地で修理をしてもらっていたのである。当然、これには大変な時間と費用がかかったことは言うまでもない。
帰国した小栗は、自前での造船を構想する。造る技術と設備を確立しなければ完璧な修理もできないというのが、小栗の考え方であった。
因みに、勝海舟は造船所建設に反対している。軍艦は数年で建造できるかも知れないが、それで海軍を創設しても、海軍を運用する人材がいない、イギリスでは人材育成に三百年かかっており、日本なら五百年はかかるというのがその理由である。人材育成の優位性は当たっているが、この男は常にこういう言い方で反対論のための反対をする。イギリスで三百年かかっているなどということの基準が分からないが、例によって誇大な「口から出まかせ」であろう。仮にイギリスで三百年かかったことがあったとすれば、是非はともかくとして、日本人の場合なら五十年程度でやっているだろう。
海軍や造船のことなど実は全く分かっていなかった勝の反対論は措くとして、具体的にどこから技術支援を受け、資金調達をどうするのか。本来なら、小栗はこの事業をアメリカと組んで進めたかったのかも知れない。しかし、彼の選んだパートナーはフランスであった。
アメリカは、南北戦争に突入していたのだ。現代アメリカは、知的レベルさえ云々される大統領を得て、国際協調路線に背を向けるという異常な行動を採っているが、この時ばかりは掛け値なしで自国のことしか考えていられない時期であった。
蛇足ながら、南北戦争こそ、紛れもない内乱である。戊辰戦争が内乱でも何でもなく、「政争」に含まれる小規模な衝突であったことを、改めて認識するには恰好の対照例であろう。
イギリスはどうか。これは危ない。今は日本侵略に簡単には乗り出せないだろうが、潜在的には世界でもっとも悪質な侵略国家である。ロシアも同じである。伝統的な南下政策は、先ず日本を対象とするのだ。
徳川政権にとって唯一のヨーロッパの友好国オランダは、かつてのオランダではない。国際協調路線を採って世界へ出てみて初めて分かったが、米英仏露に比べて国力は劣っている。
となると、あとはフランスしかない。支那侵略についてはイギリスの共犯であるが、小栗からみると日本にとってフランスは「まだましな方」と映ったのである。
これはもう、完全な消去法に過ぎないが、幕府にとってこれが間違いではなかったことは、その後の歴史が証明している。官軍史観から脱しきれない人の一部には、戊辰戦争が英仏の代理戦争となった危険性をまことしやかに説くムキがあるが、幕末史のどこにもそのような気配はなく、これも荒唐無稽な「明治維新物語」の無責任な一部である。
冷静に消去法で検討した結果がフランスであったが、一つの小さなきっかけがあった。
元治元(1864)年、幕府は翔鶴丸という蒸気船の機関部の修理を、横浜に碇泊中であったフランス軍艦ケリエール号に依頼した。翔鶴丸という船は、アメリカから購入した蒸気船で、将軍家茂が二度目の上洛の際この船を利用している。
この仕事の責任者が、幕府きってのフランス通、栗本鋤雲であった。この修理が終わった同年十二月の中頃、イギリスのオリエンタル銀行を所用で訪れた小栗が、その足で翔鶴丸に勝手に乗り込み、その修理の具合を確認しているのだ。
これには栗本が驚いた。この時点の小栗は勘定奉行である。ついでとはいえ、勘定奉行が自ら船の修理箇所を確認しているのだ。奉行が自ら外国の銀行へ出向いてくること自体が、珍しいことであった。これが、実務に明るい幕府高官・小栗という男であった。
この、翔鶴丸の修理がきっかけとなって、小栗は、造船所建設についてフランスの支援を受けることにした。フランスを相手とすると栗本の出番となるが、この件について栗本と話し合う時、小栗はあの有名な台詞を吐いたのである。
栗本に造船所について詳しい知識があったわけではないが、莫大な資金を要する事業であることは理解できた。彼は、既に逼迫している幕府財政のことを心配したのである。
これに対して小栗は、何としても必要な船の修理工場を造るとなれば、却って他の無駄な経費を削る口実ができるとし、無事完成した暁には、
「いずれ売り出すとしても土蔵付き売家の栄誉が残る」
と言い放ったのである。
「売り出す」とは、政権を手放すという意味である。徳川が政権を失っても、この造船所(製鉄所)を一緒に残してやれば、せめてもの徳川の栄誉であるということなのだ。
小栗は、別の幕臣に、
「同じ売据にしても土蔵付き売据の方がよかろう。あとは野となれ山となれでは面目が立たぬ」
という主旨のことを言っている。「売据」とは家具付きの売家のことであるが、いずれも同じ意味である。そして、国家の行く末のことでありながら、如何にも江戸っ子らしい言い回しである。
小栗は、安祥譜代の家格を誇る直参旗本でありながら、既に徳川の枠を超えており、日本国を基準にしてさまざまな青写真を描いていたと言えるだろう。いや、徳川の中枢に生きる安祥譜代の直参だからこそ、徳川政権にこだわらない国家人たり得たのではないだろうか。家康以来、徳川人には天下国家を徳川の私物とはしない、独特の気概が受け継がれているのだ。
【日本近代工学の源泉「横須賀造船所」。次ページに続きます】