日本近代工学の源泉「横須賀造船所」
元治元(1864)年十一月十日、造船所建設は、水野忠精、阿部正外らの幕閣によって正式に閣議決定された。そして、十二月九日、小栗は軍艦奉行を辞任する。ただ、日仏双方から成る製鉄所建設委員には名を連ね、実質的な建設推進役を務めた。
小栗が軍艦奉行を辞任したのは、反対派の機先を制する意図があったものと考えられる。勝麟太郎や松平春嶽、大久保一翁といった薩摩・長州に近いグループは、造船所の建設だけでなく、フランスとの提携に反対であった。彼らは、まるで小栗が「フランスに国を売る」かのような受け留め方をしていたのである。
当時の幕府財政からすれば、反対論を展開することは容易である。凡人なら誰でも反対論に与するだろう。
ところが、天は小栗と幕府に一つの幸運をもたらしてくれたのである。
製鉄所建設委員会は、フランス海軍のヴェルニーを技師長に選任した。まだ二十九歳という若さであったが、この人物の技量と人柄が秀逸であったのだ。
先ず、彼の提出した見積書に幕閣が驚いた。二百四十万ドル――幕閣が見込んでいた三分の一という安さであった。この頃になると、幕閣や幕府高官は、船の建造や買取などを通じて、この種の値段に慣れてきている。オランダやイギリスに蒸気船一隻の新造を頼むと、大体一隻八十万ドルから百万ドルを請求されるのが相場であった。つまり、蒸気船三隻分で大規模造船所が建造できることになるのだ。
これは、ヴェルニーの見積が良心的、合理的であったことと、オランダ、イギリスが新造船建造に際して〝ぼったくっていた〞こと、両方の要因が作用していたものと考えられる。
例えば、機械を選ぶに際しても、渡仏した外国奉行柴田剛中が、資金は何とかするから最新の機械を選んで欲しいと言っても、ヴェルニーは、最新の機械は故障する確率が高く、使い込まれた機械は型が古くても故障の確率は低いと言って応じないといった有様であった。
二百四十万ドルについては、一年=六十万ドル×四年という経費計画が立てられたのだが、後に明治になってから計算してみると、一年=十九万ドルしかかからなかったことが分かった。それは、ドックが完成してからは国内外の艦船の修理売上が予想を遥かに上回る収入をもたらしていたからである。
慶応元(1865)年正月二十九日、製鉄所約定書締結、同年閏五月五日、外国奉行柴田剛中が製鉄所設立談判委員として渡仏し、現地でヴェルニーの協力を得て、設備の購入や技師・職人の採用に当たった。
日本での一大プロジェクトの噂に多くの希望者が売り込みをかけてきたが、ヴェルニーの採用基準は日本の国柄を十分考慮したものであった。例えば、技師の採用基準は、フランスの国営工場で三年以上の現場経験をもっていることとした。国営工場の職工は、かなり厳しい基準の試験を受けて採用されている。その上で三年以上の現場での実務経験があれば、普通に発生する故障程度は自分で修理ができるはずなのだ。まだ機械工業が発達していない日本での仕事であることを考え、一種の「自己完結」型職人を求めたのである。
その他、人種的偏見をもっていない者、酒でトラブルを起こしたことのない者という条件を重視した。加えて、なるべく配偶者同伴で日本へ赴任できる既婚者を優先して採用したのである。倫理観の強い徳川日本での仕事である。夫人同伴の重要性については説明する必要もあるまい。
慶応二(1866)年正月十九日、柴田が帰国。同年四月二十五日、ヴェルニーに率いられた五十名強のフランス人技師・職人が来日、同十二月二十九日には製鉄所奉行に一色摂津守、奉行並に小栗と共に開明路線を推進してきた古賀謹一郎が就任して、横須賀造船所建造は本格的にスタートを切ったのである。蛇足ながら、鍬入れ式は慶応元(1865)年九月二十七日に行われており、既に基礎工事は進んでいた。
横須賀造船所には、ロープを作る製綱所や船の帆布を織る製帆所も造られた。それは、小栗が見学したワシントン海軍造船所そのままの姿であった。ドライバーやレンチといった工具類も生産され、ここで作られた工具や機械部品があったから、富岡製糸場も成立したのである。富岡製糸場は、設計そのものが来日したフランス人スタッフによるものであり、小栗の殖産興業施策の副産物であったとも言えるのだ。
つまり、日本の近代工業技術がこの造船所から国内へ広く流布、伝播していったのである。小栗を「明治の父」と呼んだ司馬遼太郎氏は、横須賀造船所を「日本近代工学の源泉」と評している。前述した通り、前者の小栗評は筋が完全に違っているが、後者は的を射ているであろう。
横須賀造船所は、当初「横須賀製鉄所」と呼ばれた。「横須賀造船所」となったのは、明治四(1871)年のことである。
当時の「製鉄所」とは、鉄製品を製造する工場という意味で、既に製鉄が済んでいる状態と言える銑鉄を持ち込み、これを溶解・精錬して、あらゆる鉄製品を造る工場のことであった。船のエンジン、ボイラーは言うに及ばず、歯車、シャフト、砲弾、大砲部品、小銃、弾丸、ネジ等々、あらゆる鉄製品を造ったのである。
幕末の近代工業化については、藩校において異常なスパルタ教育を行った佐賀藩や、伝統的な“密貿易”藩であった薩摩藩が他に先行していたとされている。例えば、幕末に反射炉を備えていたのは、この二藩と水戸藩、そして、幕府(韮山代官所)ぐらいであったが、これらはいずれも水力を動力源としていた。これに対して、横須賀造船所は初めから蒸気機関を動力源とした工場であった。
ポーハタン号で渡米してワシントン海軍造船所で驚嘆し、小栗だけでなく副使村垣も夢見た近代工場は、僅か五年後には基礎工事が始められ、十年を経ずして我が国に実現していたのである。
小栗の仕事は、非常に速い。決断が速いのである。ヴェルニーの仕事も柴田が驚嘆するほど速かった。もし、旧来の幕閣や松平春嶽、勝海舟といった旧態依然とした人物の業務スピード感覚ではこのようにはいかなかったであろう。小栗とその一派の業務スピードは、国際水準に達していたと言っていい。このスピードが、造船所反対論、フランスとの提携反対論が組織化することを防いだとみることができる。
ヴェルニーという男は、フランス最高のエリート教育機関「グランド・ゼコール」の一つである「エコール・ポリテクニック」(理工科大学)を出ている。つまり、エリート中のエリートである。普通の大学の更に上位に位置づけられるこの教育機関では、例えば我が国の現在の東京大学のような「点数をとる」試験は行わない。ここでは詳しく述べる紙幅がないが、一つの回答では済まない口頭試問を重視したり、人間性の豊かさや価値観の多様性といった面も重視する選考や評価を行うのが特徴である。幕府が、こういう真のエリートを得たことは実に幸運であったと言わざるを得ない。
討幕軍が江戸総攻撃の構えを見せた時、幕府はヴェルニーに工事を中止し、横浜へ退去するように勧告した。しかし、ヴェルニーは、「この仕事はフランス国家が請け負った仕事である」として中止せず、公使ロッシュにフランス人スタッフの保護のために仏海軍の軍艦を派遣するよう要請した。ロッシュもこれに応え、カンシャンツ号を横須賀湾に派遣、建設工事は幕末動乱のピーク時も中断されることはなかったのである。
また、慶応三(1867)年五月、造船所の職場内教育機関として「黌舎」が設立された。これも、ヴェルニーの構想である。主として農漁村から集まった生徒には、在学中は食費、被服費を支給し、小遣いまで与えて技師としての教育を授けたのである。この卒業生は、即、造船所に雇用され、更にキャリアを積んで日本の近代工業の基盤を成す人材となっていった。因みに、授業はフランス語で行われた。
これは余談であるが、ほぼ同時期にシャノアーヌ大尉以下十五名のフランス軍事顧問団が来日し、フランス式の伝習調練が始まった。この中のブリューネ砲兵大尉と九人のフランス人教官が、幕府瓦解に際して江戸を脱走した伝習生(歩兵)と行動を共にし、東北で戦った後、箱館まで渡って土方歳三、大鳥圭介らと共に伝習大隊を率いて新政府軍と戦ったのである。ブリューネ大尉以下の行動は、自分たちが教えた「伝習生への信義」を重んじた結果としての確
信的な行動であった。
こういうことを書くと、直ぐ、それは単なるイギリスに対する反撥だよ、戊辰戦争は英仏の代理戦争なのさ、というような「知ったかぶり」した“冷めた”声が挙がるが、前述した通り、それは全くの誤りである。いつまでも、昭和二十〜三十年代に流行った論を振りかざしていると、維新史の検証はできないのではないかと懸念している。
歴史というものは、生身の人間の喜び、悲しみ、怒り、感謝、諦め等々、あらゆる人間感情がもたらした行動の堆積である。そして、この時の「生身の人間」というものに国境はないのだ。
小栗は、まだましな方だという消極的な理由でフランスをパートナーに選んだに過ぎない。しかし、小栗や栗本たちが「信頼」できるフランス人に巡り合えたことは、ただただ幸運なことであったとしか言い様がないであろう。
明治四十五(1912)年、日露戦争時の聯合艦隊司令長官であった薩摩・東郷平八郎は、小栗家の遺族を自宅に招き、横須賀造船所建設の謝辞を伝えた。小栗がこの造船所を残してくれていなかったら日本海海戦の完璧な勝利はなかったというのだ。その通りである。
東郷の乗っていた旗艦三笠や主力艦は、イギリス、ドイツ、アメリカから買ったものだが、中小の砲艦や足の速い駆逐艦、魚雷艇などは殆ど横須賀、呉で建造されたものであった。これらがバルチック艦隊を追尾して完璧に沈めたのである。
薩英戦争も体験している東郷は、小栗が残してくれた「土蔵」の価値をよく理解していたのである。
大正四(1915)年、横須賀海軍工廠創立五十周年祝典が開催され、時の総理大臣、肥前・大隈重信は書簡を贈った。大隈はその中で、この造船所が小栗の努力の成果であること、ヴェルニーの尽力、東山道軍による小栗の斬首などを明らかにしたのである。
それまで横須賀造船所は、明治新政府が造ったものとされていたのだ。いいことは何でも明治新政府の手に成るもの、悪いことは何でも幕府のしたこと……明治政府とは真に恐ろしい政府であった。
次回につづく。