現在放映中の大河ドラマ『青天を衝け』や、2024年から新1万円札の肖像になることから、渋沢栄一氏の名前や功績を知る人は以前よりも多くなったのではないでしょうか。
明治から大正時代の大実業家である、渋沢栄一氏は「日本資本主義の父」ともいわれています。『論語と算盤』をはじめとする数々の著書を残し、様々な逸話がありますが、実際の人となりはどのようなものだったのでしょうか?
この連載では「曾孫が語る渋沢栄一の真実」と題し、渋沢雅英先生の全7回のインタビュー動画を交え、深掘りしていきます。第1回目は、「なぜ渋沢栄一氏が約500社にのぼる会社設立・育成に情熱を持って心血を注げたのか」について、渋沢雅英先生が渋沢栄一氏の軌跡を辿りながら解説します。
※動画は、オンラインの教養講座「テンミニッツTV」(https://10mtv.jp)からの提供です。
渋沢雅英(しぶさわまさひで)
渋沢栄一曾孫/公益財団法人渋沢栄一記念財団相談役。
1950年、東京大学農学部卒業。
1964年、(財)MRAハウス代表理事長に就任。
1970年よりイースト・ウエスト・セミナー代表理事を務めた。
日本外国語研究所代表理事でもある。
1982~84年まで英国王立国際問題研究所客員研究員。
1985~86年、1989~90年、アラスカ大学客員教授。
1992~93年、ポートランド州立大学客員教授、
1994年~2003年まで学校法人東京女学館理事長・館長を務めた。
1997年~2020年まで公益財団法人渋沢栄一記念財団理事長。
主な著書に『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1950年)、『日本を見つめる東南アジア』(編著、サイマル出版会、1976年)、『太平洋アジア――危険と希望』(サイマル出版会、1991年)、『【復刻版】太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯ー』(不二出版、2017年)がある。
■渋沢栄一氏が日本に果たした役割と「奇跡の10 年」
渋沢雅英先生(以下、雅英先生)の講義は、王子駅にほど近い飛鳥山にある「青淵文庫(せいえんぶんこ)」で行われました。「青淵文庫」は、渋沢栄一氏(以下、栄一氏)の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が寄贈した煉瓦及び鉄筋コンクリート造の建物です。大正14(1925)年に竣工し、栄一氏の書庫として、また接客の場として使用されました。
雅英先生は、栄一氏の曾孫であり、栄一氏の伝記『太平洋にかける橋』を執筆されました。著書では、日米や日中の民間(国民)外交で、栄一氏がどのような立場でどのように関わっていたのかについて詳細に綴られています。
曾孫が語る、栄一氏奇跡の10年
栄一氏は、銀行から鉄道、肥料、鉱業まで「日本の近代化に必要なことはすべてやる」という意気込みで、約500社にのぼる会社設立・育成に関係しました。なぜ、栄一氏にはそのようなことができたのでしょうか? そのことについて尋ねると、「お答えはできない、難しい問題です」と雅英先生は言います。しかしながら、栄一氏の展示を行うために深く調査をした結果、見えてきたものがあり、「奇跡の10年」という随筆を書かれたそうです。
雅英先生の指す「奇跡の10年」は、文久3年(1863)栄一氏が故郷である血洗島村の家を出て、攘夷派の志士となり、高崎城乗っ取り計画を立てたところから始まります。その後、栄一氏は京都へ行き、成り行きで生まれた一橋徳川家との縁から、徳川慶喜に仕えました。ここから、栄一氏は一橋家の経営に参画することになるのです。
■ゆかりの地で聞く「奇跡の10年間」講義録全文
渋沢雅英先生の講義録を以下に全文掲載して、ご紹介いたします。
●「青淵文庫」の由来
―― 皆様、こんにちは。本日は渋沢雅英先生に、渋沢栄一さんのことについてお話を伺いたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
雅英先生 よろしくお願いいたします。
―― 今日、こちらの場所をお借りしておりますのは、王子駅ほど近くの飛鳥山にございます「青淵文庫」というところで、まさに栄一さんゆかりの場所でございます。ここはどういった場所になりますでしょうか。
雅英先生 本来、この土地には栄一が何十年も住んでおりまして、ここで亡くなりました。大きな家もあったのですけれども、それは空襲で焼けてしまいまして、残ったのがこの建物ともう一つだけ(「晩香廬(ばんこうろ)」)です。この2棟は国指定重要文化財に指定されております。
青淵文庫というのは、栄一のお弟子さんというか、明治の初めからお付き合いしていたグループの方が、大正の終わり近くなって、記念にこういうものをつくって、栄一に寄付をしてくださったのですね。書庫ということですが、栄一にはいろいろな人との往復書簡が多量にあって、びっくりするようなものもいっぱいあったはずなのです。それに、古来何千とあった『論語』のいろいろなバージョンも持っていました。
栄一は、大事にしてきたそういうものをみんなここに入れようと思っていたのですが、関東大震災で全部焼けてしまいます。「非常に残念だ。地震が火事につながるとは知らなかった」というようなことを(言い方は違うかもしれませんが)言っていて、非常に残念がっていたものです。
ここ(青淵文庫)にはそういうものは入りません。でも、きれいな建物なので、例えば蒋介石さんがいらしたり、海外の賓客がおいでになった時、お話をするために使われておりました。できたのが大正14(1925)年で、栄一の亡くなったのが昭和6(1931)年ですから、その間だけのことでしたけれども。
―― なるほど。本当に貴重な場所をお借りいたしまして、ありがとうございます。
雅英先生 いいえ。こちらこそ。
●孫が編纂(へんさん)した68 巻、4万5000ページの『伝記資料』
―― それで、雅英先生は栄一さんの曽孫さんに当たられるわけですね。
雅英先生 はい。
―― 『太平洋にかける橋』という、(栄一の)非常に面白い伝記を書かれています。日米や日中の民間(国民)外交に、栄一さんがどのように当たられたかということについて、アメリカの事情なども本当によく調べられてご執筆になっています。この本の内容については後でぜひお聞きしたいと思いますが、こちらの書籍によると、雅英様のお父様(敬三)が栄一さんの跡を継いだ形になるわけですね。
雅英先生 そうです。孫ですけれども、敬三と申しました。
―― それは、いわゆる「当主」のような形になったということですか。
雅英先生 そうですね、栄一の「跡取り」(この言葉は今は流行らないかもしれないけれども)であったわけです。ついでですけれども、敬三はやはり栄一を非常に尊敬して、彼の『伝記資料』を出版することを志しました。40年ぐらいかかったでしょうか。全ての手紙、新聞記事など、あらゆるものを集め、大事だとか大事でないという主観を入れずに、全部ベタッと並べて出版しました。
結果として68巻、4万5000ページの『伝記資料』というものができました。それがベースになって、今、渋沢栄一記念財団というものがいろいろな仕事をすることができるようになりました。
それがなかったら昔話の集成になってしまうので、ベースとなるものを敬三がつくったといえるかもしれないですね。
―― やはり、そういうアーカイブの大切さですね。
雅英先生 そうですね。個人であれだけの材料を出版したという人は、世界にもあまりいないのではないかと思いますね。
●渋沢栄一自身が編纂した『徳川慶喜公伝』全8巻
―― 失礼ながら、雅英先生は御歳…。
雅英先生 私は関係ないですよ。私は栄一が死んだ時は6歳の子どもでございますから。
―― 6歳の時。そうでございますね。
雅英先生 その頃から敬三はそれをやっていて、敬三が68歳で亡くなる時にはまだ完成していなかったのです。
―― そうですか。じゃあ、本当に生涯を懸けた事業ですね。
雅英先生 敬三にとってはそうですね。ご一緒にやる方は他にもいっぱいおられたと思いますけれども。
―― 考えてみると、それは、栄一さんご自身、もともとの御主君であった徳川慶喜公の伝記を作るのに相当力を入れておられたというところにも関係がございますでしょうか。
雅英先生 ほぼ同じような発想でやっていますね。慶喜公に関しては、栄一とはまた違って、日本の最高指導者であった人だし、有名人でもあるし、徳川家の方でもあります。その資料を正確に残し、正確に伝えるべきだという意識は敬三とよく似ていたのだと思います。だから、『徳川慶喜公伝』全8巻は約30年かけて栄一が全部自分で編纂しました。その意味では似ていますね。
―― そうですね。大事な方のアーカイブをきちんと残していくというところですね。
雅英先生 そうですね。アーカイブですね。
●渋沢栄一が日本に果たした役割
―― 栄一さんというと、2024年から1万円札の肖像にもなられることが決定しています。そのため、栄一さんのお名前や、非常にたくさんの会社をつくられたことをご存じの方は多いと思います。いろいろな先生方から、「もし栄一さんがいなかったら、日本はこういう資本主義国家にならなかったのではないか」というお話を聞くことも多くあります。そこで、まずこの講義の最初に、栄一さんが日本に果たした役割としては、どういうことをされた方だとお考えでいらっしゃいますか。
雅英先生 おっしゃったように、栄一は約500というたくさんの会社の設立・育成に関係しました。全部自分でつくったわけではないと思いますが、関わった分野は、鉄道から肥料から鉱業など、とにかく日本の近代化に必要な全てのことをやるという意気込みでやったのですね。
それは大したものだったと思いますけれども、なぜ栄一にそういうことができたのか。あるいは他の人だったらそのようにいったのか、いかなかったのか。そういうことがお聞きになりたいのだろうと思うのですが、私もそれにお答えはできない、難しい問題です。
私は栄一という人の本を書くためもあり、ずっと後から調べたり読んだりしてきましたが、キャリアとしては非常に特別な人でした。今度この史料館で栄一の展示を行うことになっていますが、そのための紹介文として「奇跡の10 年」という言葉を用いて、ちょっとした随筆のようなものをつくりました。
文久3(1863)年に栄一は埼玉県の血洗島(現在の埼玉県深谷市血洗島)の家を出て京都に向かいますが、その裏には、高崎城乗っ取りというテロ行為のようなことを企てようとしたという事情がありました。
―― 当時は、攘夷の志士だったわけですよね。
雅英先生 そうですね。テロという言い方がいいかどうかは分かりません。ともあれ栄一は京都に行って、先ほど話の出た慶喜公に仕え、一橋家という大名家の経営に参画するわけです。またそれを、特に経済的になかなかうまくやってのけました。小さな藩ですからやりやすかったといえますが、公的な何十万石かの大名の経営に参画したわけですから、自分の家とは違います。
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NHK大河ドラマ『青天を衝け』の様々なシーンに、雅英先生が語られている内容が色濃く反映されていることがわかりますね。栄一氏にとって「奇跡の10年」とするならば、これまで描かれてきた名場面の数々は、より意味深いものに見えてくるのではないでしょうか?
協力・動画提供/テンミニッツTV
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構成/京都メディアライン