歴史にif を持ち込むのはタブーである。それでも考えずにはいられない。全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。魑魅魍魎が跋扈した幕末の歴史を別視点で考える。

平岡円四郎が仕えた一橋慶喜の広大な屋敷の模型。(茨城県立歴史館蔵)

* * *

大老となった井伊直弼(演・岸谷五朗)によって14代将軍は徳川慶福(家茂/演・磯村勇斗)が決まり、その直後に起きた安政の大獄によって一橋慶喜(演・草彅剛)は隠居謹慎処分となり、その側近である平岡円四郎(演・堤真一)も小十人組に左遷。翌年には甲府勝手小普請にされる。これは不良旗本・御家人への懲罰処分のひとつとされていて、とくに職務もなく、飼い殺しのような状態だったという。

しかし、安政元年(1860)に井伊直弼が桜田門外の変で横死すると、慶喜は同年に謹慎をとかれて一橋家当主に復帰。文久2年(1862)には将軍後見職となり政界に舞い戻ってくる。円四郎もその翌文久3年(1863)には一橋家用人として復帰を果たす。

円四郎と渋沢栄一(演・吉沢亮)が出会いを果たすのも、この年のこと。

当時、幕府はいったん開港した横浜を再び鎖港しようとして諸外国と交渉中だった。そして交渉が決裂して外国との戦争となった場合を想定し、一橋家では平岡を中心に草莽の有志、すなわち攘夷の志はあるが身分はない若者をスカウトしようとしていた。

幕末の京都で名をあげた新選組は、将軍家茂の上洛を警護し攘夷を実行するために草莽の有志を募集して結成された浪士組が母体となっている。それと同じ論理で、一橋家も人材を求めていたのだ。

八王子の関所番見習という立場にあった川村恵十郎(演・波岡一喜)という人物が、渋沢栄一とその従兄弟喜作(演・高良健吾)の噂を聞きつけ、彼らを面接した。当時、栄一や喜作は、師匠である尾高惇忠(演・田辺誠一)を筆頭とする69人で高崎城を襲撃する計画を立てていた。その真の目的は、高崎城から武器を奪い横浜の外国人居留地を襲撃するという攘夷行動であった。

つまり、平岡らのスカウト活動と、栄一らの横浜居留地襲撃は、攘夷を念頭に置いた動きという意味では、リンクしていた可能性もあるのだ。平岡はもちろん開国論者だが、慶喜と同じく、やみくも攘夷実行を唱える過激な攘夷思想は否定しながらも、攘夷そのものを否定したわけではない。むしろ外国人と戦争になれば、最新の軍事技術を用いて対抗しなければならないというリアリズムを持っていた。

川村恵十郎は平岡に栄一らを推薦するとき、彼らが「真の攘夷家」であると伝えた。すると、平岡はことのほか感激して、彼らをスカウトしたのだという。攘夷を志すほどの気概がなければ、「国難」に際して役には立たないだろうというのが、平岡の真意だったのではないだろうか。

結果として、現実味のない高崎城襲撃計画は頓挫し、元治元年(1864)2月には栄一と喜作の一橋家登用が実現する。渋沢のその後の運命は、まさに平岡円四郎によって開かれたといっても過言ではない。

慶喜首班の公儀政体の可能性

しかし、そのわずか4か月後の元治元年6月16日、平岡円四郎はすでに触れたように暗殺される。このとき、一橋家の家臣となっていた川村恵十郎が平岡に同行していたらしく、平岡は即死状態だったが、川村は刺客をひとり斬り倒し、危うく難を逃れたという。

その後、平岡に代わって慶喜の側近として活躍したのは、原市之進という人物。水戸藩きっての俊秀にして、慶喜の父斉昭のブレーンだった藤田東湖(演・渡辺いっけい)の従兄妹にあたる。若くして才能を見出され、水戸藩の藩校弘道館で教鞭を取るようになった。東湖の忘れ形見である藤田小四郎(演・藤原季節)は、その時の教え子だった。

14代将軍の徳川家茂が急死したのち、慶喜は徳川宗家を継承したものの、将軍職にはすぐに就任せず、幕府・朝廷などの周辺から推戴されるのを待って、3か月半後にようやく将軍に就任した。すでに幕府による統治が困難であることを悟り、政権を朝廷に返還したうえで新たな「公儀政体」を作る考えであった慶喜は、そのために将軍職と徳川宗家とを分離しようとしたとされているが、実はこの「分離策」は、原の献策だったともいわれている。

しかしその原も、平岡と同じく凶刃に倒れることになる。孝明天皇(演・尾上右近)の死後、慶喜は諸外国から要求されていた兵庫開港問題に、開港の勅許をえることで解決を図った。朝廷にその根回しをしたのも原であった。ところがこの動きが、尊王攘夷から開国への「変節」と受け取られ、もともとは同僚であった水戸藩士の鈴木豊次郎・依田雄太郎らに殺害されてしまう。

平岡と原は、同時代に活躍していた薩摩の西郷隆盛(演・博多華丸)、大久保利通(演・石丸幹二)、あるいは長州の桂小五郎、土佐の後藤象二郎に匹敵する人材であったとみなされている。もし彼らが命を落とすことなく、徳川慶喜を側近くで支えていたら、大政奉還から王政復古クーデター、そして戊辰戦争にいたる歴史の流れも、また違った形になったのではないだろうか。

そして、平岡と原に仕えた渋沢栄一のその後の生涯にも、何らかの影響を与えたに違いない。

原が暗殺されたとき、すでに渋沢はパリ万博に向けてフランスに渡っていたが、もし平岡や原が慶喜を支える日本に帰国していたら、もしかすると慶喜を首班とする公儀政体の重要閣僚として迎えられたかもしれない。

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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