取材・文/田中昭三
伊能忠敬(1745~1818)率いる測量隊が作製した日本初の実測地図、通称「伊能図」が江戸幕府に上呈されて今年は200年目の節目に当たる。5月には新たな副本も福岡県で確認され、再びその偉業に注目が集まっている。
縮尺の異なる、大・中・小の「伊能図」
幕府に上呈された「伊能図」は、「大日本沿海輿地(よち)全図」のことを指す。縮尺の異なる大図(だいず)・中図(ちゅうず)・小図(しょうず)の3種類があり、大図は縮尺が3万6000分の1、全214図から成る。中図は21万6000分の1,全8図。小図は43万2000分の1,全3図だ。
失われた「正本」と国内外に残された400種以上の「伊能図」
忠敬が全国の測量に着手したのは寛政12年(1800)、何と55歳になってからだ。終了したのは忠敬71歳の年。その2年後、忠敬は死去するが、弟子たちが地図を完成させた。
しかし幕府に上呈された正本は、明治6年(1873)に皇居の火事で焼失。伊能家の控え図が政府に寄贈されたが、大正12年(1923)の関東大震災で失われてしまった。
我々がいま「伊能図」を目にすることができるのは、画期的な地図量産方式のおかげである。忠敬は、最初から複数枚の地図を作ることを計画していた。そのために考案されたのが「針突法(しんとつほう)」という手法だ。清書した原図の下に何枚かの地図用紙を重ねる。続いて原図に描かれている、導線法で測った地点に針を通す。下の用紙に付けられた針穴の点を結んでいけば、原図と同じ測線を正しく描くことができる。針穴は肉眼では見づらいが、こうした針突法で複製された「副本」や、江戸期の写本、明治以降の模写本などがあり、現在知られているものだけで400種超に達する。
忠敬の足跡は、ほぼ地球1周分の距離
忠敬は当初、曲がり角のABの地点に「梵天(ぼんてん)」という竹の棒を立て、AB間を1歩1歩、歩いて測った。忠敬の歩幅は69㎝。この長さを体に沁み込ませ、狂いのないように黙々と歩いては測る。しかし同じ歩幅で歩く「歩測」は、坂道や悪路ではどうしても狂いが生じてしまう。そこで間縄(けんなわ)という縄をピンと張って測る方法を採用した。間縄は麻や藤蔓(ふじづる)でできているが、水に濡れると伸縮する。それでクジラのヒレや鉄製の鎖が考案された。
それでも測量には誤差が生じる。忠敬は少しでも誤差を修正するために、富士山のような不動の地点を各地で測り、誤差の調整を行なった。さらに夜間には天体観測により、誤差を限りなくゼロに近づけようとした。その努力の甲斐あって、出来上がった伊能図は、欧米人が驚くほどの正確さだった。
現代のデジタル機器を使えば瞬時に計測できることだが、忠敬はこの気の遠くなるような測量行脚を17年間も続けた。その間、昼間に測量したのは3754日、夜の測量は1404日。踏み重ねた歩数は約4000万歩、歩いた距離はざっと3万5000km。地球1周の4万kmに迫る距離である。
間近に眺めることができる「伊能図」のレジャーシートが好評
第二の人生をかけ、歴史を動かす大事業を成し遂げた伊能忠敬の人物像や「伊能図」の見どころ、さらに忠敬測量隊の目にしたニッポンを辿る旅まで、『サライ』7月号では35ページにわたる大特集を組んでいる。さらに大いに楽しめるのが、開封した瞬間から引き込まれる特別付録の「伊能図レジャーシート」だ。
東京国立博物館が所蔵する伊能中図(副本)の関東と中部・近畿(部分) をつなぎ、中央に富士山を配した。
縮尺は約20万5200分の1(編集部調べ)。もとになる中図は21万6000分の1ゆえ原寸に近いスケール感も魅力だ。いつでも好きな時に好きなだけ眺められる伊能図を、ぜひこの機会に手にとっていただきたい。