今回は、今年で録音60周年を迎えた、ビル・エヴァンスの大人気盤『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『ワルツ・フォー・デビイ』について。この2枚は、1961年6月25日にニューヨークのジャズ・クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」でライヴ・レコーディングされた音源を2枚に分けた双子のアルバムです。いまだに人気の高い名盤ですが、60年の節目に、これまであまり語られてこなかった観点から聴き直してみましょう。


ビル・エヴァンス『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(リヴァーサイド)
演奏:ビル・エヴァンス(ピアノ)、スコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)
録音:1961年6月25日
この日の録音音源は、『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『ワルツ・フォー・デビイ』の2枚のアルバムで発表された。発売は『サンデイ〜』が先で、録音11日後に自動車事故で急逝したスコット・ラファロの追悼盤としての意義もある。

「なぜこの名盤が生まれたか」については第88回で紹介していますが、今回はその「録音」について。この2枚のアルバムは、演奏内容だけでなく録音音質の良さでも知られています。たいへんクリアな音で収録されていることだけでなく、観客の話し声や食器の音も大きく入っていることでも有名ですね。また、会場のヴィレッジ・ヴァンガードは地下にあるため、演奏の背景で地下鉄の音が聞こえるということも、オーディオ装置の性能チェック音源として一時話題になりました。それらのノイズがあることによって、このレコードはライヴの臨場感、リアリティをより強く感じさせてくれますが、私的には長い間この「臨場感」についてひとつの疑問がありました。


ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビイ』(リヴァーサイド)
演奏:ビル・エヴァンス(ピアノ)、スコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)
録音:1961年6月25日
『サンデイ〜』と双子のアルバムだが、こちらのほうがよく知られるのは、名曲「ワルツ・フォー・デビイ」が収録されているからか。発売が先の『サンデイ〜』のほうが演奏内容はベスト・チョイスなのだろうが……。

ジャズ・クラブでのピアノ・トリオのステージは、ピアノ(グランド・ピアノ)は客席から向かって左側に置かれることがほとんどです。その理由は、ピアノのふた(正しくは屋根)を観客に向けて開くため。ピアニストの右手側が開きます。このときのステージ写真は残されていませんが、ヴァンガードのピアノの定位置は左側です。でもこの2枚のアルバムのステレオ盤では、エヴァンスのピアノが右側に、ベースが左側、ドラムスは左奥から聞こえてくるのです。

その形で、ピアノがステージ向かって右側にあるなら、エヴァンスはベースのスコット・ラファロ、ドラムスのポール・モチアンに背を向けて演奏していることになります。そんなことがあるのか?、と思って調べてみると、意外にもエヴァンスが(ほかの会場で)そのポジションで演奏している写真や映像がありました。うつむいて弾くエヴァンスには、メンバーとのアイ・コンタクトは必要ないのかもしれません。となればなおさら、わざわざピアノをステージ上の定位置から逆側に移動させる理由はないので、「なぜピアノが右なのか?」とずっとモヤモヤしていたのです。以下は同じようにモヤモヤしていた人、または今、モヤモヤした人へ向けた私の考察です。


ビル・エヴァンス『ザ・コンプリート・ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード 1961』(リヴァーサイド)
演奏:ビル・エヴァンス(ピアノ)、スコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)
録音:1961年6月25日
当日の演奏音源すべてを録音順にコンプリートしたCD3枚組。演奏前のミュージシャンの打ち合わせの声や、停電トラブルで録音が中断した音源も含まれている。2011年のCD『ワルツ・フォー・デビイ[完全盤]』も同内容。2014年には同音源のLP BOX『ザ・コンプリート・ヴィレッジ・ヴァンガード・レコーディングス1961』(リヴァーサイド)もリリースされた。

結論から先に書くと「ピアノはいつもと変わらずステージ向かって左側にあった」。つまりこのレコードで聞かれるヴィレッジ・ヴァンガードは、「録音によって作られた空間」であるということ。なんかちょっと大げさですが、アルバムでピアノが右側から聴こえる理由は、「録音エンジニアは、空間の録音を狙ったわけではなかった」から。ここに考えが至ったきっかけは、2002年に発表されたCD『ザ・コンプリート・ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード 1961』(リヴァーサイド)を手にしたことでした。このライヴの全音源が収録されたそのCDセットには、レコーディング・データ・シートの画像がオマケとして付いていたのです。これはライヴ録音当日、エンジニアのデイヴ・ジョーンズが手書きした曲目などの記録なのですが、そこには「EVANS Right, Other Left」と記されていたのです。

当日は3本のマイクを使い、ミキサーを通して2チャンネル(ステレオ)テープに録音したことが明らかになっていますが、この記録は、テープには「エヴァンスは右チャンネル、そのほかは左チャンネル」で収録したことを表しています。つまり「3人の音を混ぜてステレオで録音」ではなく、主役のエヴァンスの音量調整ができるように「ピアノ」と「そのほか」で分けたのです。おそらく当初は「モノラル」を主眼に置いての制作方針だったのではないでしょうか。しかし、音質は非常に良好かつ、そのまま左右に振り分けてステレオにしてもさほど違和感がないと判断したのでしょう、そのままステレオ盤としても発売。そしてその後も続いて今日に至る、という見立てなのですが、どうでしょうか。音質はリアルでクリアですが、じつはその空間は「非リアル」だったのです。

1960年代初頭くらいまでの「ステレオ録音」には、このような、ステレオではない「モノ×2チャンネル録音」は少なくなく、それらは左右に完全に分かれてしまうので「ステレオ」としては聞きづらいものでした。しかし、『サンデイ』と『デビイ』が(ピアノの位置を除いては)さほど違和感なく聞こえているのは(ライヴ会場ゆえのわずかな各楽器のマイクの音被りもあるのですが、それ以上に大きいのは)、きっと会場のノイズのせい。客の会話や笑い声、食器のガチャガチャが3本のマイクにほどよく入って音が被り、チャンネル分離の違和感を軽減させてくれているように聞こえます。録音に関していえば、「マナーを守らない観客が名盤を作った」といえるでしょう。

エヴァンスのピアノが左チャンネルに収録されていれば、違和感なくなにも考えずに聴いていたかもしれません。エンジニアはどうしてエヴァンスのピアノを、ステージとは逆の位置関係にある右チャンネルに入れたのか。ヘッドホンでモニターするのに都合がよかったのか、それともなにかルールがあったのか、それともなんの理由もなかったのか、また新たなモヤモヤがふえてしまった(なお、実際のピアノの位置についての確証はありません)。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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