文/池上信次
第19回ビル・エヴァンスのふたつの「枯葉」~あなたはNGテイクを聴いている!?~「別テイク」の正しい聴き方(2)
前回に引き続き「別テイク」について。今回は「マスター・テイク」を決める基準はどこにあるのか、ということを考えてみましょう。
別テイクにまつわるエピソードをひとつ紹介します。ビル・エヴァンス(ピアノ)の『ポートレート・イン・ジャズ』(リヴァーサイド)は、エヴァンスの作品の中ではたいへん人気のある1作です。収録曲の中ではジャズ・スタンダード「枯葉」が、名演としてとくによく知られていますが、これにはマスター・テイクがふたつ存在します。現在リリースされている(多くの)CDには「枯葉・テイク1/ステレオ」「枯葉・テイク2/モノラル」の2ヴァージョンが収録されていますが、どちらかを「別テイク」とはしていません。なぜそうなったのかは後述しますが、本来ならばよい方の1テイクだけを収録するところです。CDをお持ちの方はこの先を読む前に、ぜひテイク1、2を聴き比べてみてください。(なおCDによっては、モノラルが「テイク9」表記のものや、モノラル/ステレオ表記のないもの、モノラル・テイクを収録していないもの、あるいはその逆もあります)。
テイク1、2のどちらがいいと思いますか? どちらも甲乙つけがたい魅力的な演奏ですよね。だから両方ともマスター・テイクとして収録した、と思いがちですが、実際はそうではありません。エヴァンスは甲乙をつけています。エヴァンスがマスター・テイクとして選んだのは「テイク2/モノラル」のほうでした。ですから「テイク1/ステレオ」は「別テイク」というべきもので、本来ボツになっていたテイクなのです。
当時、レコード会社はこのアルバムを同じ内容のステレオ盤とモノラル盤の両方で出すために、録音はそれぞれのレコーダーを同時に回していました。「枯葉」は2テイク録音されたのですが、「テイク2」の録音中に、なんとステレオの方のレコーダーが故障してしまったというのです。そして、マスター・テイクを決めるにあたってエヴァンスは「テイク2」を選びました。つまり、モノラルしか音源がないのです。当然、ステレオはどうする? ということになりますが、エヴァンスはじめプロデューサーもあわてず騒がず、ステレオは残りの方でいいや(と言ったかどうかはわかりませんが)と「別テイク」を収録したのでした。
というのは、これが録音された1959年当時、「ステレオ録音のレコード」は出始めたばかりでまったく普及しておらず、当事者たちはまるで重視していなかったというのですね。ですから、モノラルでベスト・テイクを残せれば問題なし、となったのです。しかし、のちにステレオ録音LPが一般的フォーマットとなり、このアルバムをステレオLPレコードとして出し直す際に、モノラルとステレオの両方のヴァージョンを収録し、それが現在CDになっているということなのです。本来はそこに「テイク1・別テイク」と入れるべきだったのでしょうが、ステレオ版ではそれがマスター・テイクだったのでそうもいかなかった、ということでしょう。つまり、それまで「枯葉」は2種類の違う演奏を同じ演奏として聴かれていたということになります。しかし、それは非難されることはなく、どちらもすごいということでエヴァンスの評価はますます高まったのではないかと思います。
これも「アドリブ違い」の別テイクですが、この選択にはエヴァンスの目指す方向が表れているはずですから、それを考えながら聴くのも別テイクの楽しみのひとつですね。
ビル・エヴァンスの興味深い「別テイク」をもうひとつ。
エヴァンスは多作家だったことと、プロデューサーの方針からか、録音しても発表されなかった音源が多数残されており、その人気から死後にたくさんの別テイクが発表されました。なかでも注目は、70年代の別テイク集『フロム・ザ・70’s』(ファンタジー)。83年にLPで発表され、その後はさほど注目されていなかった1枚ですが、2002年のCD化で追加収録された別テイクが驚きなのです。それは、『インチュイション』(同)からの「アー・ユー・オール・ザ・シングス」と「ショウ・タイプ・チューン」の2曲の別テイクです。『インチュイション』でエヴァンスは、エレクトリック・ピアノ(以下エレピ)をエフェクターをかけて弾きまくっており、この2曲がアルバムの代表曲です。エレピのサウンドがエヴァンスらしからぬことから、「異色のアルバム」というのが多くのファンの印象でしょう。
『インチュイション』収録のマスター・テイクでは、その2曲でエヴァンスはエレピだけを弾いているのですが、別テイクではいずれもアコースティック・ピアノをメインにした、「アレンジ違い」なのです。これがマスター・テイクとは印象が大きく異なる、異色でもなんでもない、じつにエヴァンスらしい演奏なのです。もし『インチュイション』発表当時にこちらがマスター・テイクになっていれば、おそらくアルバムの評価はまるで異なっていたことでしょう。当時はエレピは流行の楽器だっただけに、一方で「エヴァンスらしさ」のアレンジのテイクも録音しておきながらも、最終的には「時代性」をアピールするためにエレピのテイクを選んだのではないかと想像します。しかしその翌年あたりから、エヴァンスはまったくエレピを弾かなくなったので結果的に「異色のアルバム」となったわけですが、プロデューサーはじつは後悔していたのかも。このように、演奏内容だけでなく時代によっても評価基準はきっと違うはず、と思いながら聴くとほかのアルバムの印象も変わってくるかもしれません。ちょっとマニアックになってしまいましたが、このように別テイクはリスナーの想像力を刺激してくれる格好の素材なのです。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。近年携わった雑誌・書籍は、『後藤雅洋監修/隔週刊CDつきマガジン「ジャズ100年」シリーズ』(小学館)、『村井康司著/あなたの聴き方を変えるジャズ史』、『小川隆夫著/ジャズ超名盤研究2』(ともにシンコーミュージックエンタテイメント)、『チャーリー・パーカー〜モダン・ジャズの創造主』(河出書房新社ムック)など。