渋沢栄一(演・吉沢亮)の母ゑいは、中の家の家付き娘だった。(写真提供/深谷市)

渋沢栄一を知ってはいても、さすがにその両親のことまで詳しい、という人はなかなかいなかっただろう。いったい渋沢栄一の両親、なかんずく母親は栄一にとってどのような存在だったのか。

* * *

渋沢栄一の人となりを考える上で、育った環境、なかでも最も身近な父母の影響は大きな意味を持ってくる。父・渋沢市郎右衛門については、それなりに触れられる機会もあるかと思うが、母「ゑい」(または「えい」。演・和久井映見)はというと、情報が限られていて、なかなか人物像が見えてこない。

渋沢家の本家筋である「中の家」の娘であったことは間違いない。いわゆる金持ち(豪農)の家付き娘だ。伝わっているのは断片的なエピソードと人となりだけ。

いわく、慈愛に満ちた女性だった。偉ぶったところはなく、苦しむ人に施しを与えるのが唯一つの愉しみだった。情にあつく、病気や貧困で困っている人を見ると号泣してしまうこともあった……。なんとも絵にかいたような「慈母」の姿ではないか。

後年、功成り名を遂げた栄一は、多くの回顧譚・回顧録を残している。栄一の語り=証言を文字に書き起こしたものだ。こうした母の姿は、栄一自身が口にしたものであり、彼の心に刻まれた慈母の姿に他ならない。栄一は、母をそのような人物としてとらえ、記憶していたのだ。

40代以下の方はピンとこないかもしれないが、海援隊の『母に捧げるバラード』でも森進一の『おふくろさん』でも、「母」への想いを歌った歌は非常にウェットで感傷的になりがち。ありていに言えば「涙で霞んだ目に移った幻像」つまり、美化した姿を描きがちだ。

そうした「想い」は、幻像であって、「虚像」ではないにしても、「実像」とも言えないのは当然だろう。

だからこそ、赤の他人が聞いても感動できるのかもしれないが。

誰にでも分け隔てなく接する母のエピソード

栄一の母「ゑい」だが、取りあえず栄一の証言を聞くだけ聞いてみよう。

「(母は)陰になり日向になり、よく子どもたちの面倒を見てくれる人だった。夫が厳格な人だったから、苦労はあったと思うが、今になって、自分が幼いころに世話をしてくれた母のことを思うと、涙がこぼれてくる」

まあ、そういうもんでしょう。

「母は大変、慈悲深い人でした。特に私を大変愛してくれました。寒い時には、遊びに出た私を探して、嫌がる私に羽織を着せてくれるような人でした」

心温まるエピソードではあるが、「よい話」の域を出ない。「ゑい」の実像は見えてはこない。

ひとつ、「ゑい」の素顔を偲ばせてくれる話がある。ハンセン病をめぐる逸話だ。

ハンセン病は、結核菌と同種の「らい菌」という細菌によって引き起こされる病気で、主に皮膚と末梢神経が侵される慢性感染症だ。現在では、早期発見・早期治療により後遺症を起こすことなく治癒するが、治療法が確立していなかった明治以前には、伝染しやすい不治の病とみなされ、遺伝病だという誤解もあった。患者は差別と偏見にさらされ、社会から隔離されたり、極貧の生活を強いられたりするケースが少なくなかった。

ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンが「らい菌」を発見したのが1873年。明治6年のことなので、栄一が少年時代には、まだ正体不明の病気だった。

渋沢家の近在にも、ハンセン病患者がいて、村のコミュニティーからは除外され、困窮していたらしい。「ゑい」は、これを黙って見ていることができなかった。彼らに食事を分けたり、自宅に招いて入浴させたり、共同浴場で一緒に入浴もしたという。

もちろん、こうした「ゑい」の様子に陰口をきく人間もいたらしい。息子の栄一も、母の身を案じてか「感染してしまうのではないか」と言ったらしい。しかし「ゑい」は、「医者に聞いたところ、うつることはないと言っていた」と返し、患者の世話を続けたという。おそらく幕末当時でも、感染能力は極めて低いということは、医師のあいだでは知られていたのだろう。

「ゑい」は、差別や偏見をものともせず、困っている人を助ける慈悲の人であったことがわかる。その人となりは、のちに貧困者や孤児を救う養育院の運営など、社会事業・事前事業に取り組むことになる、栄一の人格形成に大きな影響を与えたことだろう。

——野暮を承知で一言加えたい。ハンセン病患者を風呂に入れてあげるという母のエピソードは、奈良時代の聖武天皇の皇后、光明皇后の伝説を下敷きにした趣がある。

仏教に深く帰依する光明皇后は、病に侵された患者を風呂に入れてあげるという善行を行なったところ、実はその患者は仏の化身だったという伝説があるのだ。

仏の有り難い教えを説くためのよく知られた「物語」で、栄一も少年時代に何かの本で目にしていたのではないか。栄一は自らの母の姿を、仏教の庇護者である光明皇后の慈愛に満ちた姿と重ねて記憶していたのだと思う。

『洗場手引草』に描かれた病人を風呂に入れる光明皇后の姿。(国立国会図書館蔵)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

 

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